「お邪魔します」
「はい、どうぞー」
 週末の昼過ぎ、春希は竜の家を訪ねた。もうすぐ試験週間に入るので一緒に勉強しようという話をすると、春希が竜の家に行きたいと言ったのだ。春希の制服以外の格好が新鮮でなんだか嬉しい。丈の長い淡い水色のワンピースが似合っている。再会して初めて家に招くので、竜は勉強そっちのけで家中ピカピカに磨き、消臭スプレーを一缶使い切るほど振り撒いた。
「これ、お母さんが」
 春希は母親に持たされたケーキ屋の紙袋を「休憩の時にでも食べよう」と竜に渡した。
 リビングにいた稜輔は「久しぶりだね、春希ちゃん」と挨拶すると、春希は「お久しぶりです」とお辞儀をした。
「こんにちは、春希ちゃん。初めましてね」
「はじめまして、千秋さん。会えて嬉しいです」
 同じくリビングにいた千秋は初対面だが、度々竜の話に出てくる春希と実際に会えて嬉しそうだ。春希もニコニコして挨拶すると、千秋は「可愛い」とうっとりしながら呟いた。
「ダイニングテーブルは書類が広げてあるから、悪いけどローテーブルの方で勉強してね」
 ダイニングテーブルには一面、二ノ宮の会社の書類が広げてある。稜輔はここのところ毎日のように前社長の宗一郎と電話をして引き継ぎをしていた。
 千秋はローテーブルを綺麗に拭いて、「女の子を地べたに座らせちゃいけないのよ」と座布団を持ってきた。普段適当なのに変なの。と思いながら、テーブルに教科書とノートを広げると、春希は竜の隣に腰を下ろした。
「普通科に来て初めてのテストだから緊張する」
「赤点さえ取らなければ大丈夫だって」
 とはいえ、春希の小テストの結果を見てみると、なかなかの高得点だった。通信科は高校卒業資格を取る為の科なので、普通科や特進科ほど深く学ぶことはない。家庭の事情、身体の事情がある生徒が大半なので、勉強範囲も狭くゆっくりペースで学んでいく。なので、春希は普通科の勉強についていけるように、休み時間に教科の教師にわからないところを聞きに行ったり、郁留や愛子に教えてもらいに行っていた。目覚ましい努力の結果、数ヶ月で成績優秀者の中に食い込むところまできている。小学校の頃から要領が良かったが、きっと見えないところでも勉強しているのだろう。
 ペンを走らせる音もリズミカルで、スラスラ問題を解いていく。一方の竜は、一文字書いては止まり、一文字書いては止まりで一向に進まない。
「ここ、分からない」
「これはこっちの公式使うよ」
「これは?」
「こっちから先に計算していくよ」
「じゃあ、こっちは?」
「これは……」
 自分で考えることを諦め、春希に分からないところを全部聞き始める竜。千秋は「情けない」と頭を抱えた。
「春希ちゃんの勉強が進まないじゃない」
「あ、そっか。ごめん」
 竜に教えることに集中しかけていた春希は苦笑いをして再び自分の勉強をし始めた。竜は春希になるべく聞かないように教科書を凝視してゆっくりゆっくり問題を解いていく。
「もう無理!休憩しよう?」
 二時間ほどかけて1ページを解き終えた竜は、集中カが切れてペンを投げ出す。春希はテスト範囲の問題集をほとんど解き終えノートを閉じた。
「ケーキ食べる?」
 春希がケーキの準備をしようと立ち上がる。
「あ、座ってていいよ」
 竜が引き止めようと、春希の手首を掴むと、思ったより細くて、つい引っ張る力が入る。すると春希の体勢が崩れ、後ろ向きに倒れていく。咄嗟に受け止めた竜だが、春希の体が腹の上に落ちてきて苦しくなり、気づかれないように小さく咳き込んだ。春希はどこも打っていないようだが驚いてポカンとしている。
「ごめん!大丈夫?」
 また人を引っ張って転かしてしまった。
 竜が春希の顔を覗き込むと、春希はハッとして竜から離れた。
「竜!あんた、そういうところよ。力加減も出来ないんだから」
 千秋が怒ると、春希の心配をしつつ千秋を宥める稜輔。竜は千秋に小言を言われ続けそうな気がしたので、もう一度春希に謝り、そそくさと台所へ休憩の準備をしに行った。稜輔と千秋も何か飲むかと聞いたが、これから千秋の検診で病院に行くからと断られた。
「竜が変なことしてきたら叩いていいからね」
 千秋は出かける準備をしながら春希に「思いっきりやっていいからね」と助言していた。
「検診行ってくるよ。えっと、女の子は大事にね」
 稜輔は竜の肩をポンポンと叩いて、千秋を車に乗せ病院に行ってしまった。
 竜は春希が持ってきたケーキとお茶を用意して、テレビをつけバラエティ番組をぼーっと見る。人気アイドルが映画の番宣をしていた。漫画原作の恋愛映画だ。
「これ春希が持っていた漫画の映画でしょ?テスト終わったら見にいこうよ」
「うん。楽しみ!じゃあテスト頑張らないとね」
 我ながら自然にデートに誘えたと自画自賛する竜。その為にはテストを頑張らないといけなくなってしまったが。
 春希は「よし!」と気合を入れて問題集を開き、勉強を再開した。竜も問題に向き合うが、すぐに分からなくなりやる気がなくなっていく。分からない分、調べることが多くてすぐに疲れてしまう。大きな欠伸が出た。竜の手は完全に止まり、頬杖をついて春希の横顔をぼーっと眺め始めた。
「どこか分からないの?」
 竜の視線に気づいた春希はニコッと笑って振り向いた。不意の笑顔に思わずときめいてにやけてしまう竜。
「ううん。もう少し自分でやってみる」
 春希は「頑張って」と竜を応援すると、また自分の問題を解き始めた。千秋ならぼーっとするなとか言って怒るんだろうな。春希は優しい。
 昔から、初めて会った時から春希は優しくて頑張り屋だった。初めて春希と会ったのは幼稚園。年度の途中から入園してきた春希に一目惚れをした竜は猛アプローチをして仲良くなった。他の子とは違い我儘を言わない春希はずっとニコニコして竜の誘いに乗るので、ますます好きになっていった。でも、言いたいことを飲み込んで我慢していることも見え隠れしていた。今思い返せば幼稚園児にしては達観していたように思う。
 竜はまた欠伸をして問題に向き合うが集中力が切れて眠気が襲ってきた。うとうとして春希の方へ体が傾いていき、竜の頭が春希の肩に乗った。
「眠たいの?」
「眠たい」
「もう少し休憩する?」
 ダメだ。春希が優しすぎてダメ人間になりそうだ。しっかりしないと。
 起きようとするが、春希が肩に乗った竜の頭を撫でて甘やかしてくる。こんなに甘やかされていいのだろうか。付き合っているわけでもないのに。罪悪感に苛まれるが心地よくて眠気に従ってしまった。
 ハッとして目を覚ますと、カーペットの上で横になっていた。春希の膝を枕にして。春希は黙々と勉強しながら空いた手で竜の背中をトントンと優しく叩いていた。恥ずかしさもあったが、膝枕をしてもらうなんてこんな機会は滅多にないと、もう一度目を閉じて寝たふりをした。心地良すぎて幸せの頂点にいる気がした。
「ただいま」
 稜輔と千秋が帰ってきた。二人のことをすっかり忘れていた。しまったと思った頃にはもう遅かった。
「あんた、どこで寝ているのよ!」
 千秋に叩き起こされてしまった。目を擦りながら起き、さっきまで寝ていたふりをした。
「千秋ちゃん、あんまり邪魔しちゃ悪いよ」
 稜輔が千秋に耳打ちする。
「あの子達、そういう関係なの!?」
「友達以上恋人未満みたいな感じじゃないかな」
「なにそれ!?そんなことあるの?」
 二人でヒソヒソと話しているつもりだろうが、全部聞こえている。稜輔は納得していない千秋の背中を押して奥の部屋へと入っていった。
 春希はポカンとして二人のやり取りを見守っていたが、竜の方を振り向くと照れ笑いを浮かべた。どうやら振り向きざまの笑顔に弱いらしい竜はにやけた顔を隠すことを諦めた。