ホームルームでコピー用紙に第一希望から第三希望まで自由に書ける欄が印刷された進路希望調査表が配られた。担任教師は用紙が全員に行き渡ったか確認すると、調査表の説明を始めた。
「来週までに提出してください。まだ詳しく決まっていない人は就職か進学かだけでも書いてください」
 まだ高校二年生なのに、もう進路のことを考えないといけないのか。もう決まっている人なんているのだろうか。竜が周りを見渡すと、クラスメイトも渋い表情をしているので少しだけ安心した。
「ちょっと、早く受け取ってよ」
「あ、ごめん」
 前の席から次のプリントが配られてきた。気付くのに遅れたので、前の席の生徒は早くしろとプリントをヒラヒラさせた。次のプリントは三者面談の日程調整のお知らせだった。
「保護者の方に必ず渡してください。これも提出は来週です」
 家に帰ってすぐに三者面談のプリントを稜輔に渡すと、稜輔は手帳を開いてスケジュールの確認をしている。
「もう進路の話をするんだね。竜は進路決まっているの?」
「やりたいことも特にないから、就職でいいよ」
 適当に答える竜に、稜輔は「え…」と心配そうな顔をした。
「好きなこととかないの?」
「特にこれといってないかなぁ」
 体を動かすことも好きだし、歌を歌うことも好きだし、料理を作ることも好きだ。ただ、どれも特別好きではない。まぁまぁ出来るから好きなだけだ。これから先も気が向いたらやりたいとは思うが、専門的に取り組みたいとは思わない。
「ちゃんと大学進学も見越して用意してあったんだよ」
 稜輔は戸棚から通帳を出して竜に見せた。少し茶色くなって年季が入っている。名義には二ノ宮竜と印字されていた。
「竜のお父さん、ちゃんと竜が進学出来るようにってお金貯めていたみたいだよ」
 通帳を開いて見てみると、大学を四年間通うには十分すぎる額が記載されていた。
「尚更使えないよ。目指したいものもないのに適当に使えない」
 通帳を稜輔に返そうとするが、「それは竜のだよ」と言って受け取ってもらえない。進学する気はなかったので、いきなり大金が入った通帳を渡されてもどうすればいいのか分からない。
「そうだ。稜輔と千秋の結婚式の費用にしたら?」
「だから竜のだってば。それに、式は多分しないよ。千秋ちゃんがやりたくないって」
「なんで?」
「これから忙しくなるでしょ?だって。聞くところによると結婚式の準備って大変らしいね。子供も生まれて会社を引き継いで、その上結婚式なんて一度に出来ないでしょ?何よりそんな柄じゃないって言われた」
 苦笑いで承諾する稜輔が目に浮かぶ。彼が優しいこともあるが、歳下女房にがっつり尻に敷かれている。
「彼女は僕のことよく分かっているよ。僕、実は一度に色んなことが出来ないんだよね。一つのことに集中してしまって」
 稜輔が器用になんでもそつなくこなしているように見えていたのは、ひとつ終わらせてから次のことに取り組んでいたからだ。だから一つ一つ失敗することなく終わらせることができていた。竜はそれに気づかずに、稜輔が集中している時に話しかけて失敗させてしまうことが何度もあった。
「そうなんだ。楽しみにしていたのに」
 リアリストの千秋は冷静にこれからのことを考えたのだろうが、綺麗に着飾って皆から祝われて欲しかった。今まで自分達のことは後回しにしてきたのだから、そんな日が一日でもあればいいのに。
「僕らのことはいいから、竜が使いなさい」
 自分のお金だと言われても額が大きすぎて手放しに喜ぶことも出来ない。持っているのは怖いので引き続き稜輔に管理してもらうことにした。




 進路希望調査用紙の提出日、思ったより提出してくる生徒がいなかったらしく、担任教師は若干イラつきを見せながら早く提出するようにと言うとホームルームを終わらせた。竜も提出していない生徒のなかの一人だ。就職でいいと思っていたが、稜輔の反応を見ていると進学してほしそうなので、一応大学の資料を見てみたが、どこにも何にも興味がわかなかった。
 結局空欄のまま、通学鞄に入れっぱなしにしてヨレヨレになった進路希望調査用紙と睨めっこをする竜。
 すると、「ねぇ」と不機嫌そうな声がかけられ、顔を上げると、いつも教室に呼びに行くまで動かない郁留が珍しく竜の教室まで来ていた。少し困ったような、呆れたような顔をして席に座っている竜を見下ろしている。
「体操服返して」
「あ、ごめん」
 科が違う竜と郁留は体育の授業が被ることがないので、体操服を忘れると貸し借りをする。胸の苗字の刺繍もお互い二ノ宮なので、忘れたことがバレたことはない。とはいえ忘れるのは大概竜の方なのだが。
「洗って返すよ」
「いいよ。明日体育あるから、また忘れられたら困る」
 自分の信用のなさに悲しくなりながら郁留に体操服を返した。
「それ、今日提出じゃないの?」
 竜が机に広げたままの進路希望調査用紙が目に入った郁留が心配そうに聞く。
「郁留は何て書いた?」
「進学。志望校はまだ決めてないけど」
 特進科は進学を目指すための科のようなものだ。郁留のクラスはほとんど迷うことなく、皆進学に決めているらしい。たくさん勉強しないといけないのは大変だろうが、目指すものがあるというのは少し羨ましいような気がする。
「まぁ、こっちのクラスは未提出も多いみたいだし」
「こら。提出はしなよ」
 未提出のままでなんとかなると思っている竜に呆れて提出を促す郁留。とりあえず提出だけはすることにしたのだが、
「二ノ宮竜、山本渚。至急職員室まで来なさい」
 放課後、春希と帰ろうと支度をしていると、放送で担任教師に呼び出された。
「俺達何かしたっけ?」
「俺は思い当たりすぎて分かんないや」
 呼び出されることに慣れている渚はあっけらかんと笑っているが、竜は校内放送で名前を呼ばれて恥ずかしくもあり焦りもある。真面目な生徒ではないので、渚ほどではないが思い当たる節が多々ある。
春希に職員室の近くで待っていてもらい、渚と二人で職員室に入った。どこかのデスクからコーヒーの香りが漂ってくる。普段職員室の奥まで入ることがないので少し緊張した。
「先生、なんですか?」
 担任教師は書類を引き出しにしまい、座っている椅子をクルッと回転させて竜たちの方を向いた。
「君たちだけまだ進路希望調査用紙が未提出なんですが」
「俺、出しましたよ」
「二ノ宮君、白紙では提出になりませんよ」
 結局何も決められずで、それでも提出はしないといけないと思い、名前だけ書いて提出した。ダメだろうなぁと思ったがやっぱりダメだった。
「竜、白紙で出したの?そりゃダメだぁ」
「渚も未提出なんだろ?」
「俺は用紙をなくしたの」
「もっとダメだろ」
 竜と渚が、どっちがダメか言い合っていると、担任教師は呆れ顔で「どっちもどっちです!」とピシャリと言う。竜と渚は苦笑いを浮かべて顔を見合わせた。
「三者面談までには提出してください」
 竜と渚は声を合わせて「はーい」と力なく返事をした。担任教師は、渚に新しい用紙を渡すとまた椅子をクルッと回転させて自分のデスクに向き直った。どうやら話は終わったらしいので、職員室を出ようとすると、今度は数学教師が渚を引き止めた。
「山本君、再追試なんだけど」
「え、また追試?」
 いつも機嫌だけはいい渚の表情が曇る。心底うんざりしているようだ。渚は竜に先に帰るように言うと、とぼとぼと数学教師のデスクへ行った。竜も褒められた成績ではないが、いつもギリギリで赤点は回避出来ているので追試は受けたことがない。渚の追試の日々を見ていると大変そうだなぁと思うが他人事である。
 職員室を出ると春希が廊下の掲示板を眺めて待っていた。竜が近づいても気付かずに熱心に見ている。世界各国の景色の写真だった。澄んだ青い海、真っ白な雪山、可愛い形の街並み、巨大な建築物、世界遺産。
「あ、ここ知ってる」
 竜が声を出すとやっと気づいた春希は小さく飛び上がって驚いていた。
「なんだっけ?何の滝だっけ?」
 テレビの特集で見たことがある場所があったが、名前までは思い出せない。
「ナイアガラの滝?」
 竜が思い出せずに唸っていると、ちょうど職員室から出てきた社会科担当教師の小林が背後から答えを言った。
「今回は私の展示なの。熱心に見てくれてありがとう」
「小林先生、色んな国に行ったんですね」
 よく見てみると、小林先生が小さく写っている。現地の人と楽しそうに笑っていた。
「うん、世界一周してみたくて。友達もたくさん欲しかったから」
 あの頃は楽しかったわ。と思い出に浸る小林先生の話を聞きながら、キラキラした目で写真を眺める春希。
「春希、旅行が好きなの?」
「テレビや写真でしか見たことなかったから現実味がなかったけど、本当にこんな景色があるんだと思ったらわくわくするの」
 映像や紙面だけの世界だったものが、小林先生という身近な人間が実際に見てきたと言うと現実の物だということを実感して高揚している。同じ場所の写真でも、ただ綺麗な景色だけの写真より、小林先生が映っている写真の方が現実味がある。事故で怪我をし、その後の睡眠障害で何年も自由に動けなかった春希は一際憧れが強かった。
「斉藤さんも行ったらいいのよ。いろんな経験が出来て楽しいよ」
「行けたらいいなとは思いますけど」
 先ほどまで楽しそうだった春希の顔は一瞬で不安気になった。自分の世界が一気に広がりそうになって気持ちがついていけない様だ。
「二ノ宮君と一緒に行けばいいじゃない。二人だったら楽しそうよ」
「え、俺?英語苦手だから」
 春希だけの話だと思っていたら、連れて行ってあげなさいと言われ、驚いて言い訳をする竜。
「苦手なら勉強しなさい」
 ポロッと出た言い訳に即答され、そうですよね。としか返事ができない。タジタジする竜だったが、春希は瞬きも忘れてうっとりと写真の風景に思いを馳せている。あまりにも熱心なので、小林先生は好きな写真を一枚あげるわと言った。
「いいえ、先生の大事な思い出だから」
 春希は貰うわけにはいきませんと首を横に振りつつも、チラッともう一度写真を見た。本当に憧れているのだろうなというのが表情からも見てとれる。およそ初めて見た春希が憧れを抱いている表情。その中に今の自分では叶わないという諦めがチラついていた。少しだけ叶えてあげたい気持ちが湧いたが、じゃあどうすればいいのか全く知らない。そもそも英語の成績は赤点ギリギリである。
「帰ろう。竜君」
 いつの間にか気持ちを切り替えていた春希は小林先生にさようならと挨拶をしていた。