授業が終わる鐘がなった。特進科の教室では郁留が教科書を片付けて帰る用意をしていた。今日の放課後の予定は何もない。テストも近いから図書室にでも寄って行こうか。郁留が通学鞄を持って教室を出ようとすると、数学の教科書を持った春希がドアから頭だけを出して教室内をキョロキョロ見渡していた。
「あ、郁留君。愛子ちゃんどこに行ったかな?」
「三宅さんなら委員会だと思うけど」
「そっか、今日は委員会の日だったね」
 月に一回委員会議があるので、保健委員の愛子は授業が終わるとすぐに教室を出て行った。おそらく春希は授業で分からないところを愛子に聞きにきたのだろう。少しだけしょんぼりした春希が可哀想になり、郁留は席に戻ると春希を手招きして呼んだ。
「僕でよかったら教えようか?」
「ありがとう!」
 ぱっと一瞬で明るい表情をしてくれたことが嬉しくて、にやけそうになる郁留。あの大きい目がキラキラするところが見たくてなんでもしてあげたくなる。
「僕の後ろが三宅さんの席だから、そこに座りな」
 春希が照れくさそうにニコニコしながら愛子の席に座ると、さっそく教科書をパラパラめくって分からなかった箇所を探し始めた。
「ここなんだけど」
 竜や渚に勉強を教えると、全部分からないと言うので一から十まで言わないと理解してくれないが、春希は少し助言するだけですぐに理解していた。取っかかりが見つかったらしく、スラスラと問題を解き始めている。
「春希ちゃん、特進科でもやっていけそうだね」
 いつも竜や渚の遅い筆を見ているので、気持ち良いくらい解き進む春希を見て、郁留は思わずポロッと呟いた。
「それはちょっと厳しいなぁ。やっぱり一人で解けないところがあるし」
 そもそも校則で転科は一度までしかできないので、もともと通信科だった春希は普通科から特進科に行くことは出来ない。もし特進科に春希が来たら、昔から春希と友達の愛子が大喜びするだろう。それより自分の方が嬉しいかもしれない。未だにクラスメイトとろくに話したこともなくて馴染めていないので春希がクラスにいてくれたらいいのに。と、ありもしないことを想像する郁留。
「特進科って静かだね。テスト前だからかな」
 少し喋りすぎたかなと気を使ってヒソヒソ声になる春希。
「そっちのクラスは竜と渚がいるから騒がしいだけだと思う。まぁ、確かに静かかもね」
 おそらく自分がいるからだ。と言おうとしたが春希を困らせるだけだと思い、言わないことにした。自分が教室に入るとピタッと話し声が止まり、静かになることが頻繁にある。
 郁留は目が悪いせいで目つきが悪く、愛想もないので不機嫌だと思われてしまう。その上背が高く、体格もいいので威圧感を与えてしまうことが多々ある。本人はそれを気にしてなるべく人に優しく接しているつもりだが、大人しい優等生の集まりの特進科のクラスメイトにはまだまだ誤解されて怖がられている。
 口籠った郁留の様子を見て何か察して春希は、ぐるっと教室を見渡した。
「郁留君はクラスの人と勉強したりしないの?」
 見渡せば、教室で机を合わせて勉強を教え合っているグループがいくつかある。
 郁留は春希の問いに苦笑いで答えた。
「あんまり仲良くないからね」
「でも、郁留君と仲良くしたい人はいるみたいだよ」
 春希は隣の席の男子の方を向くと「ね?」と笑いかけた。
「一緒に勉強しない?高橋君」
 高橋君と呼ばれた猫背でそばかすが目立つ男子は、いきなり春希に話しかけられてビクビクしている。
「いいの?」
 高橋はビクビクしたまま自分の机をくっつけた。彼は誘われたら断れないのではないかと心配になった郁留だが、高橋は照れ笑いを浮かべてモジモジしていた。
「僕も教えてほしいな。二ノ宮君、頭いいから」
「僕が分かるところなら」と郁留が頷くと、高橋は嬉しそうに教科書をパラパラとめくり始めた。
 どうしてこんなにモジモジしながらニコニコしているのだろう。郁留が高橋を不思議そうに見ていると、春希は「言ったでしょ?」と微笑んだ。
「あの、ここ……」
 高橋が分からなかったページを見つけて郁留に見せようとすると、
「春希、ここにいたんだ」
 静かな特進科の教室に、竜がバタバタと入ってきて高橋の言葉を遮った。
「人が話しているところを遮るな」
 郁留が竜に注意すると、竜は高橋に手を合わせて謝っていた。
「勉強しているの?俺も入れて!数学がさっぱりでさぁ」
「いいけど、少しは自分で考えろよ?」
「考えた結果、さっぱりなんだって」
 郁留が「もう……」とため息を吐く。すっかり竜のペースに飲まれて居心地が悪そうな高橋は教科書を閉じて「また今度お願いね」と立ち上がろうとしていた。
「え?高橋君、どこ行くの?」
「僕、図書室に本を返しに行かないといけないんだった」
 高橋は机を元の位置に戻し、手早く教科書を鞄にしまって教室から逃げるように出て行った。
「高橋君、あんなに急がなくてもいいのに」
「竜が大きな声で話すからびっくりしたんじゃない?勉強教えてほしいって来てくれたけど、控えめだから人に譲る性格なんだろうね」
 きょとんとする竜に郁留はため息混じりに騒がしいのも考えものだとたしなめた。
「そっか。悪いことしたな。謝ってくる」
 竜は申し訳なさそうに眉をひそめて急いで高橋の後を追った。
「追いかけたら逆効果だと思うよ」
 止める春希の声は届かず、竜は走り去ってしまった。トラブルを予感した春希も竜を追って走って教室を飛び出した。どうして今日はみんなバタバタ走るのだろう。郁留は自分だけ教室でゆっくりしているわけにもいかない、と三人を追いかけた。

「高橋君、ごめん!逃げないで!」
「何!?なんで追いかけてくるの!?」
 竜が追いかけると高橋はさらに走って逃げてしまった。何故逃げられるのか分からない竜は一生懸命追いかけるが、高橋も一生懸命逃げる。
「待ってよ。邪魔してごめんってば」
「もう分かったから、来ないでよ」
「なんで!?」
 高橋は何故逃げているのか、竜は何故追いかけているのかお互いよく分かっていないが、追いかけっこを続ける二人。階段の踊り場で竜が追いつき高橋の腕を掴むと、高橋の足がもつれ、竜の方へ倒れてきた。竜は高橋を支えきれず、自身も後ろへバランスを崩した。すぐ後ろは下り階段。
「竜君!高橋君!」
 竜と高橋に追いついていた春希と郁留は階段の下にいた。春希は階段から落ちそうな二人を見て思わず一歩前に出てしまった。案の定、階段から落ちてきた竜と高橋に体当たりされる形で巻き込まれた春希。そして春希の後ろにいた郁留も三人が倒れ込んできて一番下の下敷きになった。郁留は咄嗟に春希の頭を庇って抱き抱えると、自身は頭や肩を強く地面に打ちつけてしまった。それでなくても三人の重みで身体中が痛くて自力で立ち上がれない。声にならない声で呻く郁留。ドミノ倒しのように階段から落ちたので、周りの生徒が悲鳴を上げ、駆けつけた教師が急いで四人を保健室へ運んだ。

「二ノ宮君、痛いところは?」
「全身痛いです」
 保健室で郁留は頭と肩に氷嚢を当てられるが、背中も腰もその他も痛い。春希は倒れる時に地面に手をついたらしく、手首が腫れあがっていた。保健委員でちょうど保健室にいた愛子が心配そうに春希の手首に氷嚢を当てる。竜は顔から倒れたらしく、鼻を打って鼻血を流していたが誰にも構われないので、自分でティッシュを鼻に当てて流れてくる血を拭っている。
「とりあえず、三人は病院に行きましょうか。先生、保護者の方に連絡してくるわ」
 養護教諭は愛子に後の処置を指示し、職員室へ向かった。
 唯一無傷の高橋はバツが悪そうに保健室の隅で座っていた。
「ごめんなさい。俺が無理矢理高橋君を引っ張ったから。追いかけられたら怖いよな」
 青い顔をしている高橋に気づき、竜は自分が悪かったと全員に謝った。高橋はハッとして首を横に振ると、自分も逃げて悪かったと謝った。
「二ノ宮君は一緒に勉強したいって言っただけなのに、いきなり逃げたら感じ悪いよね。あまり君達と接点がない僕がいたら邪魔かなって思って、居心地悪くなって逃げてしまったんだ」
 竜に自分の気持ちを打ち明けた高橋はビクビクしながらも、少しだけスッキリした顔をしていた。
「高橋君は郁留と友達になりたかったんだろ?邪魔したのはむしろ俺の方じゃない?」
 高橋の話を聞いて、やっぱり悪いのは自分の方なのにどうしてそんなに申し訳なさそうなのか不思議そうな竜。
「誰が悪いかって言われたら二人とも悪いと思うけどね」
 愛子はせっせと追加の氷嚢を作りながら冷たく言い放った。巻き込まれた春希と郁留が痛い思いをしていることが納得いかない愛子はイライラしている。
「二ノ宮と高橋が追いかけっこして二人が怪我するならいいけど、春希と二ノ宮君が一番怪我しているってどういうことなの」
「ごめんなさい」
 愛子が怖くて震え声で謝る高橋だが、その態度がまた愛子をイラつかせた。
「ビクビクしない!シャキッとしなさい!」
 愛子に怒られて怖がりながらもピシッと姿勢を正す高橋を可哀想に思った竜は、高橋に「三宅さん、いつも怒っているよな」と苦笑いして話しかけた。
「二ノ宮!」
 愛子は怒鳴りながら竜に追加のティッシュボックスを投げた。
「あの、ちょっといい?」
 体にありったけ氷嚢を乗せられた郁留はそれを落とさないように小さく手を上げて愛子を遮った。
「高橋君と三宅さん、僕と竜のことは下の名前で呼んでくれる?ややこしい」
 話の流れをよく聞けば分かることだが、同じ苗字なので竜が怒られていると自分も怒られている気分になってあまりいい気分ではない郁留。「二ノ宮」と呼ばれるとどっちのことだか分からない。
「いいの?」
「いいっていうか、お願いしたいんだけど」
 高橋と愛子は、郁留を下の名前で呼べることに照れて顔を赤くしてモジモジしている。
「高橋君も三宅さんも郁留のことが好きなんだな!」
 郁留を好きでいてくれる人がいて嬉しい竜は「よかったな!」と拍手をして喜んだ。だが、郁留本人の前で「好きなんだな」とバラされた愛子は怒りでわなわなと震えていた。
「あ、ごめん。俺、また余計なこと言った?」
 鼻血を出している竜にあまり強く当たることが出来ない愛子はプイッと顔を逸らし保健室を出て行った。
「どこ行くの?」
「春希と郁留君の荷物を取りに行くの!」
「じゃあ、俺も行くよ。鼻血止まったし」
 血だらけのティッシュをゴミ箱に捨て、急いで愛子の後について行く竜。「僕も行くよ」と高橋が二人の後を追おうとすると、郁留が「高橋君」と呼び止めた。
「明日、一緒に勉強しようね」
 高橋は郁留に誘われて嬉しそうな笑顔で「うん!」と頷くと保健室を出て行った。
保健室に二人で取り残された春希と郁留。今まで口を出さず様子を見守っていた春希は「ふふ」と笑った。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない」
 理由は教えてくれないが穏やかにニコニコしている春希。その表情とは裏腹に、氷嚢でずっと冷やしているが腫れが引かない手首。
「私の頭、庇ってくれたんだね」
「春希ちゃんが潰れるかと思った。でも、結局怪我してしまったね」
 春希は首を横に振って「これは私の不注意」と言った。
「郁留君はいつも目の前の人を守ろうとしてくれるよね。優しいね。だから本当はみんな郁留君のことが好きなんだよ。高橋君も愛子ちゃんも、竜君も私もね」
 急に褒められて恥ずかしくなった郁留は顔を背けるが耳たぶが真っ赤になっているので春希に照れていることが丸わかりである。
 竜と春希はストレートな言葉を使うので周りを動揺させる。喜怒哀楽が素直だ。対して郁留は恥ずかしいからとあまり言葉にしない。上手く表現出来ない郁留に代わって竜と春希がくみ取ってくれるから二人の側は居心地がいい。だが、竜はともかく彼女に関しては勘違いする輩がいそうで心配でもある。
「あんまりそういうこと言わない方がいいよ」
「え?ダメだった?」
「ダメじゃないけど……好きでもない人に勘違いされるよ」
「でも郁留君のこと好きだよ」
 真っ直ぐな目で言われて一瞬ドキッとしたが、なんの区別もない意味の「好き」だと理解している郁留はニヤッと笑って少しだけ意地悪な質問をした。
「それ、竜にも同じこと言える?」
 目を見開いて固まる春希。
 やっぱりそうかと、意地悪なことを聞いたのは自分なのに切ない気持ちになった。いつか、竜と春希が二人だけでどこか遠い所に行ってしまうような気がした。六年間、自分には認識できない竜にだけ見える春希の話をずっと聞かされていた郁留は羨ましくて仕方がなかった。小さい頃は三人でいたのに、二人だけの世界ができている竜と春希の間には入れないのだと寂しくなった。
 春希はジッと大きな目で郁留を観察するように見据える。何もかも分かっていそうな視線に耐えられなかった郁留は「ごめんね」と謝るとため息を吐いて俯いた。
「郁留、稜輔が迎えに来てくれたから一緒に連れて行ってもらおう」
保健室に自分と郁留の鞄を持った竜が戻ってきた。俯いている郁留を見て「痛むのか?」と心配する竜。
「郁留、立てる?肩貸そうか?」
 郁留はいつもなら断るところだが、素直に肩を貸してもらい八つ当たりも含めて竜に体重をかけた。
「大丈夫か?」
 竜は郁留が痛くて自力で歩けないと思い、背中に担ごうとしたが上手く持ち上げられず半ば引きずりながら稜輔の待つ昇降口へ向かった。
「春希のお母さんも来られたみたいよ」
 愛子も春希の鞄を持って戻って来ると、春希に「行こう」手を差し出した。春希は愛子の手をギュッと掴み、離さないまま歩き出した。
「どうしたの?」
 手を繋がれて不思議そうな愛子。
「こういうの変、かな?」
「たまにはいいじゃない?子供の頃に戻ったみたいで私は嬉しいわよ」
「そっか」
 郁留の切ない気持ちが伝染した春希は胸のつっかえを吐き出すかのように深く深く深呼吸した。