春希を家まで送り、自宅に帰ると家の中から焦げた臭いがした。急いで家に入ると、台所で千秋が咳き込みながら真っ黒な焦げの塊を魚焼きグリルの中から取り出している。
「それ何?」
「鮭」
 見る影もないほど真っ黒にされた可哀想な鮭は炭と化していた。
「失敗しちゃった。焼き魚って難しいわ」
 咳き込みすぎたのか、しょんぼりしながら涙目になる千秋。
「貸して。俺がやる」
 竜は千秋から菜箸をひったくり、換気をしてくるように言った。グリルの中の炭もとい鮭を取り除き、暗黒空間になっているグリルを洗った。
「ただでさえ料理苦手なのにレシピ見ないから」
「出来るかなって思ったの」
 千秋は、仕事はテキパキこなすのに家事はからっきしなのだ。特に料理は苦手なくせに何故かレシピ通りに作らない。
 一通り片付けが終わった頃に稜輔が帰ってきた。竜と同じく焦げ臭さに驚いて急いで台所に入ってきた。
「あぁ、よかった。火事じゃなくて」
 稜輔は鮭だった残骸を見て何があったかすぐに把握した。
「ごめんなさい」
 千秋は謝るとそれっきり俯いて無口になってしまった。
「魚を焦がすことくらい僕もあるよ」
 稜輔が「竜もやったことあるよね」と同意を求めるので急いで頷くが、千秋の顔は上がらない。
「私、ちゃんとした物を作れたことない」
 妊娠、結婚を期に仕事を辞めた千秋は、体調が安定している時に家事を頑張ろうとしているようだ。その痕跡が所々にあるが、いまいち上手くいかないらしい。得意な仕事を辞めてしまって、苦手な家事しかすることがない。その上、失敗続きだと自信もなくなるだろう。
「僕に出来ないこと、千秋ちゃんはたくさん出来るじゃない」
 稜輔は真剣な顔で励ましの言葉をかける。優しい言葉に千秋は俯きながら照れ笑いを浮かべた。竜は新婚の二人の邪魔にならないように、そっと離れようとしたが、千秋に襟首を掴まれて引き止められた。
「手伝って」
「なんで俺?」
 せっかくいい雰囲気なんだから、稜輔に頼めばいいのに。と思いつつ、渋々うなずいた。千秋は冷蔵庫から野菜をいくつか取り出して切り始めたが、今にも手を切りそうな包丁捌きで見ていられない。竜は千秋から包丁を取り上げ、やって見せた。
「こう、猫の手!」
「あんた、意外に器用よね」
「千秋のおかげでな。自分で作った方が早いし美味い」
 千秋は竜をギッと睨む。
 家庭科の成績はさほど良くはないが、簡単な料理はわりと早くに作れるようになった。度々台所を焦がす千秋を見ていて、自分が作らなければ焦げを食べる羽目になると思ったからだ。稜輔もおそらく同じ理由でなんでも器用にこなせるようになったのだろう。
「一つも家事ができない妻なんて、ダメよね」
 再び落ち込む千秋に、動揺して手が止まる竜。顔を覗き込むと、千秋はニヤッと笑って竜の脛を蹴った。
「足癖悪いぞ」
「デリカシーないのよ、あんた」
 それはよく言われるので認めざるおえないが、落ち込んだフリをするのは卑怯だと口を尖らせた。
「私、本当は仕事の方が好きなの。結婚だって、同棲六年になるし、あんたと稜輔がいてくれるから別に今しなくてもいいかなって思ってた」
 竜は稜輔に引き取られたその日に千秋に出会った。両親を亡くしてすぐの竜に周りは気を使って優しくしてくるが、千秋は「靴を揃えて脱ぎなさい」とか「箸の持ち方が違う」等と叱り飛ばしてきた。おかげで三人での日常に早く慣れることが出来た。
「でも、あんたは卒業したらどこに行くか分からないし、稜輔は会社を継ぐし数ヶ月後には子供も生まれるし」
 徐々に変わっていく環境を受け入れようとしつつも、なんとも言えない感情をまだ飲み込めていない千秋。
「千秋は今、幸せいっぱいだと思ってた」
「そりゃ幸せよ。でも、今だって何も出来ないのに、やっていけるかなってちょっと思ったの」
 一度話し出すと不安な本音がポロポロと零れ出てきた。
「あれもこれも考えるから不安になるんだって。本当に何も出来ないわけじゃないだろ」
 竜は千秋に包丁を渡して、さっき見せたようにやってみるように言った。千秋は言われた通り、猫の手にしてゆっくり切り始めていく。先程より格段に安心して見ていられる。それから、「焦らないで」「説明書をよく読んで」と竜の声かけだけで焦げのないカレーが出来上がった。
「お腹すいた!」
 自分の皿にご飯を大盛りに入れ、ルーを目一杯かける竜を千秋は思いっきり抱きしめた。今まで自分が作った物でお腹いっぱいにしてあげられなかったので、竜がたくさん食べようとしていることが嬉しかった。
「危ないって!皿持ってるから!」
 竜はカレー皿を机にそっと置き、千秋を引き剥がした。抱きつかれるのはやっぱり恥ずかしいらしく、耳が真っ赤になっている。稜輔はすっかり元気になった千秋を見て安心して微笑み、自分の皿にカレーを大盛りに入れた。