「……たようだ」
あと数歩。というところで聞こえてきたその声。
それに反応して、ぴたりと止まる足。声は彼のものだと頭は理解しているのに、誰かと話しているのだろうかと思った瞬間、息をひそめてしまった。
こんな時間に、誰と、どんなことを、話しているのか。
無意識に、脳裏に巡らせてしまった、過去の記憶。「金づる」に寄り添うふたつの嘲笑。真っ白になった頭。その日以降、違う生き物に見えてしまった彼の姿。
「……っ、」
やはり私は。
思考を中断させたのに、つきりと胸が痛んだ。
このまま、帰ろうか。
もちろん帰るところなんてないけれど、騙されているふりなんて、私にはできない。
帰ろう。とにかく、ここから出よう。
「……いいんだ、鷺沼。都合よく利用されていたとしても、花梛がこの先、俺を誰かの代わりとしてしか見ていなくても、」
そう決意した瞬間、また聞こえてきた彼の声。
はっきりと聞き取れた会話の中に、己と、二度ほどお世話になった運転手さんの名前があったせいで思わず息をのむ。
運転手さんの名前を知ったのは二度目にお会いしたときだった。物腰の柔らかそうな人だなという印象のその人との会話にどうして私の名前が出てきたのだろう。
不意にわいた疑問。それを確かめようとしてしまうのはきっと、私の悪癖だ。
「お前の言うように、報われない想いを抱えたまま死ぬことになったとしても、」
しかしもう、自分でも止められない。
息を殺し、そっと、壁に張り付いた。