「人間は意外と自分自身について鈍くなったりするからね。…まあ、彼の目にはきっとそんな風に見えたんだろう。三和くんは口数少ない人間だが、いろいろと鋭く見ているからね」


そう言って、Mr.Pinkは伝票を持って立ち上がった。


「これからも末永く我が社の顧客になってくれ、ハニー。そうすると、きっと彼も喜ぶよ」

「あ、はい」


Mr.Pinkが出たあとも彩響はしばらく一人でコーヒーを飲んだ。どうしても寛一さんのことが気になる。有給を拒むのも、自分に「無理している」と言ったのも、何もかもが。

今日帰ったらじっくりお話しよう、そう決心して彩響はカフェを出た。




その日の夜。

家に帰ってくると、食卓には彩響の好物が用意されていた。寛一さんは普段と変わらない様子で彩響を迎えてくれた。


「お帰りなさいませ」

「ただいま。今日夕食すごいですね。これ全部作ったんですか?」

「はい、これが俺の仕事ですので」

「いや、その…わざわざありがとうございます。結構手がかかるものばかりなのに。いただきます」


手作りのビーフシチューなんて、なかなか食べられるものじゃない。彩響はテーブルに座り、シチューをパンと一緒に食べ始めた。美味しすぎて、ペロっと一皿食べてしまった。


「おかわりしますか?」

「はい!…あ、じゃなくて。ちょっとこっち座ってください。話があります」

言われた通り寛一さんがテーブルに座った。どう切り出そうかしばらく悩んで、彩響がこう聞いた。


「寛一さんのおかげで、最近とてもいい生活しています」


「それは…恐縮です」


「で、これからも長くお世話になりたいので、寛一さんに何か報奨をあげたくて」

「そんな、俺は俺の仕事をこなしているだけです。報奨など、要りません」


予想から1㎜もはずれない返事が戻ってきた。彩響は諦めず言い続けた。

「そんなこと言わないで、有給使ってどこか旅行でも行ってきたらどうですか?リフレッシュも出来るし、たまには気晴らしも…」

「いいえ。結構です」


寛一さんは光のようなスピードではっきりと断った。そんな、人の話が終わってもいないのに…。彩響の表情を読んだ寛一さんが再び口を開けた。


「すみません。提案はとても嬉しいです。しかし本当に必要ありません」

「どうして?社会人なら誰もが望む休暇ですよ?別にバイトでもないし、休むからって給料減るわけでもないですよ?」

「知っています。…が、とにかく休暇は要りません。有給を使わなかったとはいえ、その分を彩響さんに請求したりする予定もありません。ですので、もうこの話は無しにしてください」

「いや、でも…」

「ここまで気遣ってくださらなくても、彩響さんはもうすでに立派な雇用主様です。なので、俺はいつも通りこの家で仕事をします。…以上です」


そう言って、寛一さんは席を離れた。彩響はスプーンを握ったまま、その後ろ姿をただ見つめるだけだった。