瑠璃、旧姓水無瀬瑠璃はいわゆる一般人だった。

父は公務員、母は専業主婦で、今となっては旧時代的ではあるが普通と呼ばれる家庭で育ってきた。

生活に困るほど貧困ではなかったが、毎日のように豪勢な食事や物があったわけでもない。

二週間に一回の家族での外食が楽しみな良くも悪くも平均的な生い立ちだった。

勉強は苦手ではなかったから国立の大学に進むことができるまで、瑠璃の人生はグラフにすれば横一直線だったのだろう。

目立って友人と喧嘩をした記憶もないし、身を焦がすような大恋愛をした記憶もない。

山も谷もない人生で、程よく苦労して程よく幸せ。

そのまま人生が進む物だと思っていた。

夢であった保育士系の教育を受け、人とのコミュニケーションも努力も人並みにはできると自負していた瑠璃はこのまま何でもないところに就職して誰かと結婚して人生を無難に生きる物だと信じて疑わなかった。

主役になる、特殊な生き方をする人間は自分以外にいる物だと思っていた。

そう、大学に通って三年、あの梅雨の日が来るまでは。

その日、瑠璃はサークルの飲み会に顔を出してから一次会で帰ると言ういつも通りの1日を過ごしていた。

言い寄ってくる男はいたし、全てを断っていたわけでもない。

瑠璃の人生と同じように、普通に、過ごしていた。

今日は梅雨でそんな気分でもないからと先に一人家路についたのだが、コンビニを出たところで置いてあった傘が誰かに取られていた。

戻って買おうとも思ったのだが、今出てきたばかりのコンビニにすぐ戻るのはどこか気まずく実行できなかった。

幸い雨足はは強くなかったし、帰ってからお風呂に入ればいいか、と瑠璃は言い訳を作って傘を差さずにまた家に向かって歩き始めた。

繁華街から少し抜けたところで雨が強くなってきて、瑠璃は思わず立ち止まって天を仰いだ。

「はぁ、最悪・・・」

後10分も歩けば家だと言うのにもう髪も服も濡れる所は全て濡れてしまっていた。

街灯がなくて危ないし怖いからと普段は使わない裏道から早く帰ろうと右足を90度曲げて踏み出したのだが、それが瑠璃の人生の分岐点だったと、後々瑠璃は強く思うようになる。

裏道は何の会社かわからないような会社や雑居ビル、古いマンションに囲まれた道で明かりはない。

街灯どころか生活の光すらも届かないような道なのだ。

家賃が安いからと郊外に住んでいた自分を呪いながら諦めて進んでいると、ある民家の塀に背中を預けて蹲る人の姿が見えた。

雨の中傘も差さずにいるその姿は異様であり、たまに高架下などで見かける人間か、と瑠璃は顔を伏せながら歩き続けた。

何もされたことはないが何もありませんように、と願いながらただ濡れて暗い地面を見つめながら歩いて行くのだが、ふと瑠璃はその視界に色が入ってきて思わず足を止めてしまった。

水たまりが反射するのは月明かりだけで、黒とたまに黄色があるだけの世界だったのだが、それに紛れるように黒っぽい赤が目に入ったのだ。

「えっ?」

パシャ、とその赤い水溜りに足を踏み入れた瑠璃は慌てて足を上げるのだが、お気に入りの黒い靴の底から水と一緒にポタポタと赤い滴が垂れていた。

その色が濃い方をゆっくりと視線で追って行くとうずくまっている誰かのところから溢れてきているようで、瑠璃は次の瞬間にはその人物に駆け寄っていた。

「だ、大丈夫ですかっ⁉︎」

どう考えてもその赤の正体は血液であり、ただ事ではないと瑠璃は焦って蹲る人物のすぐそばで膝をついてその様子を確かめた。

うずくまっている人物はスーツ姿であり、肩まであるサラサラであろう髪の毛は雨に濡れてぐしゃぐしゃになっていた。

一体どれくらい雨に打たれていたのか。

ボロボロの姿のスーツ姿からは予測ができなかった。

そしてそんなことより、彼のワイシャツの中心が真っ赤に染まっており、もしかしたら死んでいるのかもしれないと思うほどに底からは止めどなく血液が流れ、もはや固まり出しているようでさえあった。


体温を確かめるために彼の首に手を当てながら声をかけると、うずくまっていた男はぼんやりと焦点の合わない瞳で瑠璃を見上げた。

「・・・・お前・・・・」

「意識はあるんですね!すぐ救急車呼びますから、もう少し頑張ってください!」

ポケットからスマホを取り出そうとする瑠璃の手をうずくまった彼は素早く握って制止した。

「っち、いってぇ・・・・あそこのカバン、とってくれ」

忌々しげに舌打ちをした彼は瑠璃にそう言って道の反対に落ちているカバンを弱々しく指さした。

救急車もいらぬと言う彼の意見に従えるはずもなかったのだが、瑠璃は何故だか有無を言わせぬ迫力を感じて言われた通りに彼の指さしたカバンを取って渡した。

カバンも彼と同じように雨に濡れており、ずっしりと重いのだが、彼はそんなことも気にしていないかのようにカバンの中に手を突っ込んだ。

「あいつ、世話焼きだからあるはず・・・」

声も弱々しいのだが、彼は手早くカバンを漁ると中から黒い包みを取り出して瑠璃に向けた。

「・・・これ、は?」

瑠璃は反射的に受け取るのだがあまりにも見覚えがなくて何かはすぐに理解ができなかった。

いや、正確に言えば見覚えはありすぎたのだ。だが、この場面、この状況で出てくる物ではなくて、理解が追いつかなかったのだ。

「折り畳み、傘?」

だよね、と確かめるように呟いた瑠璃の髪にそっと手を乗っけるようにうずくまった男は手を動かして弱った顔でもしっかりと笑顔を作った。

「女が、雨に濡れるもんじゃねぇ。お前みたいに、いい髪の女は、特にな」

それだけ言うと彼は手をだらりと下げて意識を失ってしまった。

瑠璃はなぜそんな心配をこの生と死の間にいるような男にされるのだろう、と困りながらも放っておくことができずにいるのだった。