EP.3
短針が一を指して長針が円を何度か周回した時、
誰かの足音が止まり、病室の前で立っている感覚を覚えた。
僕はベッドの上でドアを覗き込むように見つめた。
「相澤さん?真乃?」
二人のどちらかとは思いつつも、判断ができなかった。
相澤さんが病室に入らず、前で立ち止まるとは思えないし、
真乃がこんな静かに現れるとも思えなかったから。
病室前の誰かに向けて、試しに机を二回叩いてみる。
すると、考えを巡らせる前に回答はついた。
ドアがゆっくりと開き、真乃が姿を見せた。
普段の登場ではなかった真乃を不思議に思い、僕は首を傾げた。
心を忘れたような表情を咄嗟に変え、真乃は笑顔で言う。
「私だと思わなかったでしょ?また相澤さんかって思ったんじゃない?」
不思議ではなく、違和感をはっきりと感じた。
「相澤さんって思ってたなら私の勝ちだね。来輝、騙されたでしょ。」
ついさっきの元気がまるでなくなっている。
「なんかあった?話してよ。」
首を横に振り、答える。
「何でもないよ。ほんとに騙してみただけ。」
真乃は一直線に窓へ駆け寄り、僕に背を向け言う。
「ねえ、来輝。今日どの雲にする?あの少し大きい雲にする?」
僕の見つける雲と真乃の見ている雲が同じかは分からずとも、
一つの雲を指さした。
真乃は一瞬後ろを振り向き、僕の指からまっすぐに線を引いて、
すぐに窓に視線をうつした。
「あれね。OK。」
物静かな声色で理解した様子を見せる。
僕らの会話をする時間は、日々、少しずつ変化する。
窓枠にうつりこんだ雲によってスタートが切られ、
完全に窓を横断した時、会話のタイムアップが宣告される。
雲とともに時の流れを感じ、雲とともに時の限りを知る。
それが僕たちだった。
「あの――さ。今――ね。」
真乃は重たい口を開き、何かを言おうとする。
「ほ、他の患者さんに困ってることあるんだよね。中山さんっていう――。」
話を変えた。なんか気が付いてしまうんだ。
僕は真乃の表情を確認したくて、テーブルを二回叩く。
驚いた反応を見せ、一瞬首が右へ動く。
それでも、振り向きはしなかった。
真乃は僕の行動を無視して、話を続ける。
「最近、患者さんが全く話を聞いてくれない。」
「今日、相澤さんに何を言われた。」
そんな話で有限の時間は確実に過ぎていった。
「相澤さん。私が今日は代わりに行くからとかさ。
なんでなんだろーね。私が行くって言ってるのにさ。」
僕は何度も机を叩き、ペンを握り、言葉を並べた。
今、聞きたくもない話を遮るために。
ただ、強く、真乃の行動を止めることは何故かできなかった。
真乃は、じっと空を見つめ僕に言葉をただ投げかけるだけ。
振り向く素振りもしない。
机上の音に反応も見せない。
「あ、雲が。」
その言葉を残し、真乃は僕の空間を後にした。
僕は何もできずにそこにいた。
自分勝手な会話でも、時間は過ぎていく。
「雲は早いな。」
心の中でそうつぶやいた。
雲の速度は、およそ時速四十キロメートルから五十キロメートル。
それでも窓枠を横断する時間はそんなに速くはない。
この病室の窓から、雲までの距離はおよそ六十キロメートル。
この距離が速いものを遅いと錯覚させてくる。
遅いと感じるものに会話という、人との交流が速いと錯覚させてくる。
今日の雲が速いのか。
一方的な会話でも、時は早く過ぎるのか。
その答えは真乃のいない空間の中にぽつりとうつる。
僕の見ていた雲。
先行する雲もない。
そして、真乃に違和感を覚えていたのは、僕だけではなかったことを
その日の午後。知ることになった。
相澤さんが部屋に訪れ、真乃のことを聞かれた。
「患者さんに聞くのってきっと違うと思うんだけど、
最近の弓野さんのことどう見えてる?」
「なんか変だと思わない?」
真乃に関して、どう答えるべきか迷い、
「なにかあったんですか?」
とだけ、記しその先はやめた。
相澤さんは静かに窓に近づき、いつもとはまた違う
真剣なトーンで真乃の変化を伝えてきた。
「最近、こうやって窓ばかり見て、一人小声で話してるの。
まるで自己暗示しているように真剣でさ。
それに、どこか空回りしていて。
患者さんに対してもどこか上の空なんだよね。」
「それで、患者さんから文句入ってきたりしてて。
来輝さん仲良いから、なんか聞いてないかなって思ってきてみたんだけど。」
真乃について少し記した。
「検査とかはいつも通りだと思います。
お昼の後に来てくれた時に、なんかいつもと違うなとは思いました。」
窓から僕へ視線を変えて、相澤さんは話を続けた。
「看護師に限った話ではないのかもしれないけど、私たちの仕事ってさ、病に苦しむ患者さんがいて、検査とか生活の補助とかを日常的にさせてもらうの。その中で、私たちが逆に話を聞いてもらって、相談してとか、ポジティブになれる面もある。けど、反対に、さっきまで元気にベッドで笑っていた患者さんが、午後には命を落とすことだってある。
弓野さんは四年、こういう環境で働いてきて、心に穴が開いちゃったんじゃないかって思うの。」
僕は、相澤さんの話を真剣に聞きながら、
気づけばペンを手に取り、質問を投げかけていた。
「もしかして、相澤さんもそういう経験があったんですか?」
病院という、特殊な環境で働く人にしかわかりえないものを感じた気がした。
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私は、窓際に置かれた一つの丸椅子に手をかけ、腰を下ろし、
過去を思い返すように、ゆっくりと首を縦に振り、当時を伝えた。
看護師として働いて三年目の夏のこと。
私には担当していた七十代の女性の患者さんがいた。
その方は、とても温厚で人の気持ちを上手に読み取ることに長けた人だった。
時間を見つけては、その方のところへ行って、たわいもない話をしたり、入院している子どもたちを呼んで、一緒にゲームをしたり、仕事の悩みから日常の悩みまでを相談させてもらっていた。
ことが起きたのは、私が休みの日。
その人は急に亡くなった。
自分をとにかく悔いた。
その日は、家でゴロゴロして時間がただ過ぎるのを待つだけの意味のない一日。
支えた時間よりも支えられた時間の方が長いくせして、最後に声をかけることも、顔を見ることもできなかった。
それからは、普段通り患者さんを見られなくなって、帰っても寝れなくて、自分の体がまるで自分のものではないようになって。
仕事としてやっていることではあるんだけど、仕事として思ってもできることではない。
そういう少し特別な気持ちで接してきたから、上手く心をコントロールできなくなった。
だから、もしかしたら、弓野さんもあの時の私のように一人で抱えて、
今を過ごしているんじゃないかなって思ってしまった。
彼は、私の話を遮ろうとも、私から目を逸らすこともなく、じっと聞いていた。
彼を初めて知ったのは、あの日。
救急車で運ばれてきたあの日。
それからずっと彼の成長を見てきた。
だから、その言葉は意外で純粋に嬉しかった。
「ごめんなさい。相澤さんのことちゃんと見れていなかったです。」
彼がどういう真意で、どういう意図のもと、その言葉を選んだのか。
私が理解することはないけど、嬉しい気持ちを隠すことはできなかった。
だから、話題を変えた。
「私ってさ、顔かわいい系じゃないじゃない?
それに声も低いから結構怖がられんのよ。どう?怖い?」
話し終えて、どうしてこんなチョイスにしたのか。
自分で自分を拷問したくなった。
けど、彼を見て、ありだったかもと思う。
と同時に、本当に正直な子だと思った。
彼は、小さく頷いた。
私は笑顔で、一人突っ走る声を必死で追いかけた。
「あ、やっぱり。私もそんな気してたんだよね。
だって変だもん。弓野さんと話してる時の顔じゃないもんね。
いつも頷くだけで、文字描いてくれないし。
来輝君、字めっちゃ綺麗だから書いた字見たいんだけど――。」
大人げない言葉を必死でかき集め、スタートラインへ戻り、彼の顔に目を向けると、彼は肩をすくめ口角を大きく上げていた。
即座にメモ帳に手を出し、言葉を記す彼の文字を追った。
「これからは文字で話しますね。ご要望にお応えして。」
「反抗期だった時のことはチャラにしてあげる。」
私はまた、大人げない言葉をかき集め、病室を後にした。
ごめんね。来輝君。私がその日のうちに彼女と話ができればよかったのに。

