風が強い。雪混じりの風が容赦なく私の視界を乱していく。雪が薄らと地面に転がる岩を覆い始めている。それでも、一歩一歩を踏みしめながら歩き続けなければならない。

 アイゼンはまだ必要ない。

 足元をしっかりと確かめながら、目の前にだらだらと続く山道を見上げると、『八合目』と上手いのか下手なのかよく分からないふにゃふにゃした書体で書かれてある看板が目に入った。

 背にからう六十リットルのザックの重量が、両肩と腰へその重みを伝える。あともう少しだ。私は、看板の所にある少し開けたスペースに立ち止まると、顔の半分を覆っていたネックウォーマーをずらし、ほうっと一息ついた。

 目的地である九合目まであと一歩。そこにテントを張り、テントをベースにぐるっと周回し、山頂を目指すのが今回の登山の目的である。

 時計をちらりと見ると、予定より僅かに早いペースで歩いてきたのが分かった。

「よし」

 水筒の水を一口含むと、ネックウォーマーを元の位置に戻し、九合目を目指し再び歩きはじめた。





 九合目にたどり着くと、風を避けれる場所にテントを張り、荷物を一旦、テントの中に置いた。

 テントは一人用の小さなもので、マットにシュラフ、ザックなどを置くと、シュラフの上に一人が横になれる、ちょうど良いスペースだけになる。一人でも二人用を選ぶ人が多い中、私はこの手狭な空間が大好きなこともあり、この一人用を長年使用している。

 ガス缶にバーナーをセットし、テント前室のスペースに置き、クッカーに水を入れて湯を沸かし始めた。

 私一人しかいない山には、雪混じりの強い風の音と、バーナーが湯を沸かす、ごうっという音だけが聞こえる。

 温度計を確認すると、外気温はマイナス八度を示しており、私はザックよりダウンジャケットを取り出し羽織ると、山岳地図を眺めた。

 現在時刻は午後三時。

 山頂まで、私の足なら約三十分ちょっとで行ける。

 少し考えていると、ぽこぽこと湯の沸く音がしてきたため、ククサにインスタントコーヒーの粉を入れ、お湯を注ぎ入れる。テントの中にコーヒーのいい香りが充満すると、ふぅふぅと息を吹きかけ、一口飲んだ。

 慌てなくて良いかぁ……

 どうせ、明日にはぐるっと周回して山頂に行くのだから。そして、ここに戻ってきてもう一泊して山を降りる。そう登山計画を出してきている。

 私は、ダウンパンツに履き替え、ザックの中から文庫本を取り出すと、コーヒー片手にゆっくりと読み始めた。





 風の音がとても大きく、時折、テントをこれでもかという程に揺らした。

 私は、日が昇る前に起床し、ランタンに灯りを灯すとテント前室にバーナーを設置した。お湯が沸くと、アルファ米にお湯を注ぎタオルで包むと、クッカーにインスタントの味噌汁の具材を放り込んだ。

 それを胃の中に入れると、軽く柔軟体操をして、頭にヘッドライトを装着し、今日の予定である山岳周回へと出発した。

 昨日の悪天候が嘘のように晴れ渡っている。しかし、気温は相変わらず低く、体が暖まるまでの間、ゆっくりといつもよりペースを落として歩いていく。

 山道は相変わらず岩だらけで、薄らと積もった雪で滑らないように、いつもより慎重に歩を進めていった。

 少し開けた場所に出ると、ちょうど朝日が遥か遠い山々の向こうから昇って来るのが見える。

 山々が、まるで焼けたように赤く染まっており、私は暫しその光景に見蕩れてしまっていた。

 これだから、登山はやめられないんだ。

 今年、三十才になった私に、周りから結婚話しなど色々聞いたり、言われたりすることに疲れていた。

 しかも、最近彼氏と別れたと言うこともあり、結婚やらなんやらの話しは聞きたくなかった。

 彼の笑顔、すまし顔、寝ている顔、心配してくれている顔、怒った顔、色んな顔を思い出す。

「うん」

 私はぎゅっと背伸びをすると、トレッキングポールを持つ手に少し力を入れ、また一歩一歩、先を目指し歩き始めた。





 山頂にたどり着いた頃には、辺りも薄暗くなってきており、ゆっくりと太陽が沈んで行くのが見える。赤橙色が空と雲を色付けながら夜との境目をぼやかしている。

 私は山頂の岩に座りザックを下ろすと、バーナーとワインの入ったスキットルを取り出した。スキットルからクッカーへとワインを移し、バーナーにかけ温め始める。いい塩梅に温まって来た頃、マーマレードとシナモンパウダーなどをワインに入れてかき混ぜると、マグカップに注ぎ、ゆっくりと口へと運んだ。

 温かいホットワインが胃にしみて、体の芯から温まって来るのが分かる。

 しばらくの間、マグカップを両手で包むように握り、夕陽が沈んで行くのを黙って眺めていた。

 結婚がなんだ、彼氏がなんだ、うるさい。

 私は私なんだ。

 涙が一雫、頬を伝うのが分かった。

「馬鹿野郎、愛してたよーっ」

 私はそう叫ぶと、ザックに荷物を直し、山頂を降りてテントへと戻っていった。