ランチの少し後、少女の部屋にまたミラルカが訪ねてきた。

「お庭に行きますか?」

 少女はつい嫌な想像をして体が強張った。庭に行くことは聞いていたが、いざファビオに会うと思うと足が少し震えた。

 あれだけ散々ファビオの性格について聞いたというのに情けない。だが、ミラルカが一緒にいるのだ。きっとなんとかなる。自分に言い聞かせ、怖気付く足を奮い立たせた。

 庭に出るのは初めてではないが、以前見た時は朝方で霧が濃く、逃げ出そうとしていためまともに見ていなかった。

 侯爵邸の庭は見た事がないくらい綺麗で、色んな花が咲き誇っていた。

 そこらじゅうに部屋に飾られた花と同じ形の花が咲いている。アーチに巻き付いた蔦には大きな星のような花が咲き、庭園にある噴水からは清涼な水が流れ出ていた。

 ────素敵なお庭。声が出たのなら思わずそう言っていただろう。

 辺りを見回していると、少し向こうに花に埋もれていた人影を見つけた。

「ファビオ」

 ミラルカが呼ぶとその影が振り向いた。まだあどけない顔をした少年がそこにいた。

 ファビオはミラルカから聞いていた通り、同じぐらいの歳の頃だ。背丈が小さく、バラに埋もれて顔の半分が見えなかった。

 ファビオはゆっくりちこちらに近づいて来た。少女はついミラルカの服の袖を握った。

「えっと、こんにちは」

 ファビオが目の前まで来た時、少女は体の半分をミラルカの後ろに隠していた。怖くない。怖くないと言い聞かせても、体はどうにもいうことを聞かなかった。

「この子がファビオですよ。言ったとおり、小さい子でしょう?」

「ミラルカさん、そういう教え方はしないでくださいよ。君は……名前は?」

「そういえば聞いていなかったわね」

 少女は持っていた紙に『しらない』と書いた。

「知らない?」

 ファビオは不思議そうな顔をした。

 人間は普通名前がある。少女も、かつては名前があった────のかもしれない。

 少女は名前があった頃のことを覚えていなかった。というのも、物心ついた頃にはすでに閉じ込められた生活を送っており、「お前」以外の名前で呼ばれたことがなかった。

 何年もそんな生活を続けていたから、名前がどういうものかさえ忘れてしまった。

「まぁ、いいじゃない。それよりファビオ、バラ園を見せてあげて」

「うん。えっと……この庭園にはいろんな色んな国のバラが植えてあるんだ」

 ファビオは庭にあるバラをひとつひとつ説明した。

 最初は怖いと思っていたが、綺麗な花は自然と嫌なことを忘れさせてくれた。話を聞いているうちにだんだんとファビオにも慣れてきた。

 ファビオはミラルカと同じで怖くない。怒鳴ったりもしない。触ってこない。本当に心の優しい男の子なんだと分かった。

『せんぶファビオさんがおせわをしているんですか?』

「うん、そうだよ。大変だけど、綺麗に咲いたら嬉しいからね」

『またみにきてもいいですか?』

「好きなだけ見ていいよ。言ってくれたら好きな花部屋に持って帰っていいから」

 ファビオははにかんだような笑顔を向けた。

 まだ子供のようなあどけない笑顔。屈託のない純粋な笑み。信じろ、などと言われずとも自然とそう思える。

 この日少女は少しだけ人に心を開いた。