エルの心は穏やかだった。記憶がないと聞かされた時は不安だったが、その不安はすぐに消えた。

 ベッカー邸の従業員達は皆親切で、いつも自分を気遣ってくれているのが分かる。過保護なくらい大げさな時もあるが、それは自分を想ってくれているからがゆえだろう。

 世話をしてくれるミラルカは優しく、自分のことをなんでも分かってくれた。

 庭師のファビオは毎日花を持ってきてくれる。穏やかな人柄は話しているだけで癒された。

 そしてこの屋敷の主人、ネリウス・フォン・ベッカー侯爵は自分のことを壊れ物みたいに扱った。

 ネリウスはいつも優しくて、親切な人物だった。高い身分の人間らしいが、そんな素振りはちっとも見せない。

 普段は仕事をしていて執務室に籠っているが、時折ベンチに座って花を眺める自分のそばに来て、一緒に話すこともある。

 だが、話せば話すほど不思議な感覚を覚えた。疑問が湧いた。

 目覚めた自分に、ネリウスは庭にあるバラ園を贈った。ファビオが手入れしている大きな庭だ。なぜこんな立派なバラ園を自分にくれるのか、分からなかった。

 自分は以前からここに住んでいたらしいが、関係性が掴めない。ネリウスはこの屋敷の主人。その他の人物はこの屋敷の従業員。なら、自分はいったい誰なのだろう。

 誰もが優しくするところを見ると、ベッカー邸の人間────ネリウスの家族なのかもしれないが、ネリウスははっきりとは告げなかった。「心配することはない」と、言ってそれ以上は教えてくれなかった。

 けれどこの奇妙な関係が気になるのに思い出せない。時折悲しそうな目で自分を見つめているネリウスのことも。



 この日、エルは屋敷の中を散歩していた。

 エルの部屋は一階にあるため庭にすぐ出られる。だから屋敷の中は食堂へ行く時くらいしか動かない。図書室もたまにいくが、ほとんど読んだことがある本で見にいくことは少なくなった。

 ちょっとだけ冒険してみたい。そう思ってエルは部屋から出た。

 侯爵邸は本当に大きくて、迷子になりそうだった。知らない部屋の方が多い。未だに行ったことがない場所もいくつかある。

 普段よく行く場所はミラルカが掃除しているため床がピカピカだ。だが、あまり足を踏み入らない方へ行くと少し埃っぽい空気が漂っていた。

 ベッカー邸は広いが、働いている従業員は屋敷の大きさに比べてかなり少ない。人が普段入らない方に行ってみると、長い廊下の向こうに大きな扉が見えた。

 ────ここは何の部屋?

 扉には大きな錠が付いていた。鍵がかかっていて、中には入れないようだ。

 エルはつい気になって、鍵を外そうといじってみた。

「そこに入るな!!」

 突然大きな声がした。驚いたエルはその声がした方を向いた。廊下の向こうからネリウスがこちらに向かってくる。やけに焦っている様子だ。

「そこは古くて危ないから、もう近づくな」

 ネリウスが怒ったところを見て、エルは怖いというよりも驚いていた。いつも優しくて穏やかなネリウスが、あんなに真剣に、怒鳴ったことに。

 なんだか申し訳なくて頭を下げた。

「……怒鳴って悪かった。怪我をするから、そこには近づくな」

 ネリウスはバツが悪そうに、その場を後にした。

 エルはネリウスの姿がすっかり見えなくなった後、もう一度扉を見つめた。

 ここはそんなに危ない場所なのだろうか。見た感じはそこまで古そうではない。他の部屋よりも豪華で華やかな扉。この奥には一体何があるのだろう。

 ネリウスがあれほど怒るなんて、ここで何かあったのだろうか。