医者が隣町まで往診に出かけていたため、ベッカー邸に着いたのは夕方になった。

 医者は「最善を尽くします」と言ったが、不安は消えなかった。目を覚ましたエルのことを考えると、このまま眠っていた方がいいのでは────という考えがよぎった。

 ミラルカも、ネリウスも拒絶し、追い詰められたエルは二階から飛び降りた。

 衝動的なものだったとはいえ、よほどの恐怖だったのだろう。最後のエルの瞳を、ネリウスは頭から忘れることができなかった。

「……どこも打った跡はないようですね。落ちた場所が植え込みでよかった。ただ、外傷はないようですが、先程の話を聞いた限りだと楽観視はできません。もしかしたらまた混乱して────」

 医者は言葉の先を濁した。

 確かに、命は助かったがまた同じことをしたら────。次も運よく命が助かるかどうかは分からない。

 エルはベッドの上で規則正しい寝息を立てている。その表情は安らかで、とても先程まで怯えていたエル本人だとは思えない。

 ネリウスはエルが寝ているうちに、一階の部屋へ移すよう指示した。

 本当なら、鍵をかけてどこへも行かないようにすべきなのかも知れない。

 だけど、それはエルにとって本当にいいことだとは思えなかった。また囚われの生活を思い出して怖がるような気もした。

 そしてエルが目を覚ました時に、少しでも気持ちが安らぐようにファビオに言ってバラをいくつか摘んでこさせた。

 気休めかもしれない。でも、思い出して欲しかった。バラ園を贈った気持ちも、ダンスを教えた時も、いつも思っていたことを。一人ではないということを。

 ネリウスはそのまま、部屋でエルが目覚めるのを待った。