その頃、ネリウスは一人書斎で仕事をしていた。だが、先刻からペンは止まったまま進まない。

 昨晩の晩餐で見たエルを思い出して、ぼんやりと物思いに耽った。

 エルは初めて見た時からかなり変わった。

 淡いグリーンのドレス。細くしなやかな体のライン。純白に近い肌。下から徐々に視線を上げると、緊張した表情が見えた。

 着飾っているせいなのか、化粧をしているのからなのか、初めに会った時とはまるで印象が違った。

 薄汚れていた顔は白い肌が透けるようで、その髪は絹のように艶やかだ。そして伏し目がちなその瞳は最初見た時と同じ美しい緑色だった。

 相変わらず細すぎるが、その華奢な体がドレスの形とよく合っていた。

 ベッカー邸には十年以上前に亡くなった両親の絵が飾られている。だから、顔はすぐにでも思い出すことが出来た。

 エルの瞳は母親とよく似ている。とても珍しい瞳だ。ネリウスは母親以外その瞳を持つ人間を見たことがなかった。

 エルはこの屋敷に随分と馴染んだようだ。一対一では無理らしいが、ファビオやジャック達と話すこともできるようになったという。

 だが未だに、自分とは話せていない。

「話したい」。そう思うが、ミラルカのいうように上手く言葉が出てこない。

 いつも社交界で使う「世辞」のように、適当に口を開くことは出来なかった。

 地位や欲の塊みたいな女なら、適当にあしらうことも出来る。見た目を褒めておけば、印象もよく後腐れない。

 けれどもエルはそんな女達とは違う。よくも悪くも少女のように純粋で素直だ。適当に言った言葉が爆弾になりかねない。

 喋ってもロクに気の利いたセリフも言えないから、バラ園なら喜ぶと思って贈り物にしたが、思いのほか喜ばれているようだ。

 あれからエルは何度もバラ園を訪れていた。それを自分は窓から眺めるだけ────。そう思うと切なかった。

 庭を歩く穏やかな少女の心をかき乱したくない。そう思うのに、この不明確な気持ちはそれを相反して大きくなっていく。

 ネリウスは完全に手を止め、椅子から立ち上がった。窓の外を眺め、見えるわけもないエルの姿を探した。

 今頃はミラルカと一緒に湖で寛いでいる頃だろう。

 気になるなら行けばよかっただろうか。だが、会ったところでどうせうまく喋れない。エルに不愉快な思いをさせるだけだ。