惡ガキノ蕾 二幕

 ~H31.4.30 (火) いざ行かん悪魔の城へ~
 翌日。
 この日が終末となる平成最後の一日。4月30日の夕方。
 家の駐車場に停まったのは、ゴツイという表現以外に似つかわしい言葉が見付からない、アメリカンサイズの重量感オラオラ感共に山盛りワゴン。運転して来たのは規格外に厳《いか》ついスキンヘッドの瀧澤和男。
 言う迄も無く征十郎の片腕で、双葉と凜にとっては剣道を通じての恩師でもある。
「和男!久しぶり!元気だった?」「御無沙汰してます。和男先生」
 思いゝに挨拶を交わす双葉と凜の陰に隠れて、あたしからは自分でもびっくりする位小さな声しか出てこない。「こんにちは…。お世話になります…」人見知りか!
 和男の運転して来たキャンピングカ―みたいなその車には、運転席の後ろの小さなカラオケボックス程のスペ―スに、テーブルとソファ―、冷蔵庫までが用意されていて、置いてあったテレビは軽く50インチ超えのサイズだった。
 千葉の外房までの道程《みちのり》。至れり尽くせりの車内の装備がもたらすセレブ感、窓の外を流れて行く景色が与える疾走感、盛り上がる双葉と凜の勢いに押されて次第に調子に乗っていくあたし。走る車の中、シャンパンを三杯程引っ掛けて窓の外に海が見えて来る頃には、ほろ酔いという段階を疾《と》っくに通り越していたんだと思う。
 視界と感覚が徐々に曖昧になって行く。話すのも面倒になって来たあたしは、窓の外に向けた瞳にただ黙って海を映していた。
 飽くこと無く寄せては還す波の営み。耳に時折触れる双葉達の会話。やけに心地のいいシャンパンの口当たりと、景色に匂う潮の薫りにいい感じに逆上《のぼ》せたあたし。辛うじて聞き取れたのは、征十郎とパンチ…じゃなくて、辰雄先生は一日早く前乗りしていて、既に別荘で待っているという事と、東京に戻るのは凜の大会の前日、3日にする積もりだという事の二つだった。
 …てゆう事は…?1ギガにも満たない容量、しかもシャンパンの酔いの所為《せい》で著しく通信速度を落としたあたしの脳味噌が、乳牛よりもゆっくりとした歩みで動き出す。
 "今日カラオマエハ三泊四日ヲ征十郎ノ別荘デ過ゴスノダ"という答えを導き出したのは、それからたっぷり百八十秒後の事だった。
 あたしとしては、何故《なにゆえ》平成最後の一日と令和という時代のスタ―トとも言える始まりの二日間を、滅多に立ち入れないとは言え、魔物の巣窟みたいな場所で怪物達に囲まれながら迎えなければならないのか、不平不満は売るほど…いやもういっそ誰か貰ってくれと言いたい位あったけど、でも…でもね、双葉と凜の楽しそうな顔を見てる内に、何かもう、全てがどうでも良くなって来て、死んだ気になってあたしもこの三泊四日を楽しむ事にしたんだ。一度っきりの人生、況《ま》して時代の変わり目に立ち会えるなんて、そう何度もあるこっちゃないし。そう考えたら、こんな時に沈んでるなんてもったいないしね。アルコ―ルは時に人を寛大にさせる…事もあるのかも知れない。
 ──エンジンの音が騒ぐのを止《や》めて車が停まる。「着いたぞ」と、ずっと黙っていたせいか少し掠れた和男の声。「お疲れ―」『お疲れ様でした』双葉の後に、凛とまだ酔いの覚めないあたしの声が続く。車を降りたあたし達の眼前、冠木門《かぶきもん》の向こう四十メ―トル程先──神社と見紛うほど壮麗な和風建築の木造家屋がお出座《でま》しになった。
『庭でかっ!!』今度は練習した?と疑われる位、三人の声がピタリと重なる。ある程度の予想はしていたと言え、庭だけじゃなくその屋敷も、圧倒される程立派な物だった。
 いやもう、それはゝ立派過ぎた。
「ははは…」余りにも見事な景観を眼の当たりにした凛とあたしの口から、水気を失ってパサパサになった笑い声が零れる。突然想像を超える物を見せられると、人は何故だか笑ってしまう。これはきっと真理だ。
 車を降りて歩くあたし達四人が、外灯に照らされた屋敷の門口に近付くにつれ、立っていた二本の柱が実は門柱ではなく、人間のお爺さんとお婆さんだったという事が判る。動きと人間味の少ない、なんだか人形みたいな二人。
『今晩は。お世話になります』と此処もかぶってなかゝのコンビネ―ションを見せるあたしと凜。
「六兵衛です」と、お爺さんの方の人形から声が聞こえた。喋る時でさえ、殆ど口許に動きが無い。すると今度は隣から、
「八重です。皆さんのお世話をさせて頂く旨《むね》旦那様より仰せつかっております。万事、不自由が無き様にと言う事でしたので、宜しくお願い致します」
『こちらこそ宜しくお願いします』
 二人から醸し出される空気感に自然と背を伸ばすあたし達。何だか不思議な雰囲気の二人。こんなに近くに居るのに纏っている空気が明らかにあたし達と違う。それは和男のそれともまた少し違った物に感じる。
 八重さんに案内されて履き物を揃えると、次に向かったのは、脊髄反射で「宴会場か!」とツッコんだ、五十畳有ると言う大広間。天井が貼られてなく、小屋組がそのまま見える吹き抜けの造りに、あたしと凜が「おぉ―」とか「はあぁ―」とか感想を洩らす中、その大広間の奥4、5メ―トルはある一枚板の座卓の真ん中に、征十郎が鎮座していた。少し離れて辰雄の姿も在る。
「早かったな」
「征十郎!」と双葉が声を揚げ、嬉しそうに駆け寄って行く。
 その光景に少なからず驚いて、あたしは凛と顔を見合わせる。戸惑うあたしを他所《よそ》に、凜の方では、こんな風に年相応に感情の動きを見せる双葉を目にするのも初めてではないらしく、その顔に何ら驚きの色は無かった。その凜も「辰雄先生!」と、オレンジ色の声を揚げて、パンチに向かって走り出す。和男も合流して旧交を温める皆の会話に強引に割り入る強靭なメンタルを持ち合わせていない、育ちが良くて人見知りなあたしは、目の置き処を探して窓の外に顔を向けた。時を移さずお茶を運んで来てくれた八重さんが、立ち去ろうとせずそのままあたしの隣に座る。ふわりと白檀の薫りが鼻を撫でて、直ぐに隠れた。同じ方角に向けたあたしと八重さんの視線の先では、匂い立つ鮮やかな緑の木々達が、石灯籠の灯りを受け葉音も立てずひっそりと一つの時代の終わりに立ち会っている。
「あなたがはなみさんですね」
「へっ?…あ、はい。…そう…ですけど…」あれ?まだ自己紹介していないのになんで?
「旦那様から伺っておりますので」
 あたしの心の声に答える八重さんの言葉。征十郎と一緒に居る位だから只者じゃないとは思っていたけど、もしかしてこの人も人間ではないのだろうか?それにしても驚く事が続く。征十郎に面と向かって挨拶したのなんて一度だけだし、その時だって碌《ろく》すっぽ会話もしていないのにあたしの名前覚えてたなんて。…でも、それはそれとして…。て言うか、伺っておりますあたしの話って…なんすか?
「双葉さんと凜さんの話は随分前から幾度となく。それこそ、わたくしも家《うち》の人も、それはもう耳が覚える程に聞かされておりましたが、はなみさんの話をされている時の旦那様の御様子は大層愉快そうでしたので、わたくし共もはなみさんにお会い出来るのを楽しみにしておりました」
 ふぇ?…愉快そう?…笑かすような事なんてした覚え無いけど…。
 不安になって来て黙っていられないあたしは、内なる思いを口にする。
「あたしの話って…、どんな感じの話ですか?」
「ブフッ…」
 あたしの問い掛けに堪え切れないと言った感じで、あたしに負けず上品そうな八重さんが吹き出した。着物の袂《たもと》で隠した表情を窺う事は出来ないけど、肩の揺れはなかゝ収まらない。
「クックッ…グブッ…、御免なさい。思い出したら、つい…グッ…、ほら、あれですよ。診療所で治療器具を旦那様の物と取り違えて、その後ホテルでお会いになられた時に、変顔と言うのかしら?面白い顔で他人の振りして誤魔化そうとなされたって…ブッ…ハハハハッ、あ―可笑しいッアハハハハハ…」
 ぐぼげっ!ばれてたんかい!……無理だ。恥ずっ!今ならまだ間に合う、車から見えたあの大海に身を投げよう。そう決意して立ち上がろうとするあたしの腕に、八重さんがそっと触れた。
「あのように底から笑っていらっしゃる旦那様は、わたくし共でも久し振りに拝見致しました。心より御礼申し上げます。これからも末始終《すえしじゅう》お付き合い、宜しくお願いしますね」
「…は…い」
 八重さんの場違いとも思える真摯な眼差しに射竦められて、気が付いた時にはもう返事を返してしまっていた。それでも諦めの悪いあたしは、頭の中で此処から逃げ出す算段を始める。
 すると今度はそれを止めるよにあたしの膝の上辺りに視線を落とした八重さんが、そっと言葉を置いた。
「澄んだ瞳《め》をした良い娘さんだと仰っていましたよ」
「へ?」
「はなみさんの事を、お気に召されたんだと思います」
 更にひとこと言い置いて、音も無く立ち上がると、障屏画《しょうへいが》の描かれた襖の向こうの暗がりに、溶け込むみたいに消えて行った。
 征十郎があたしの事を気に入った?そりゃ又なんで?冗談を言ってる感じじゃ無かったけど…。…あ、喰われるのかな。いやいやいや…、だけど…なんで?
 あ―でもない、こ―でもないと考えを巡らすあたしを他所に、世界は新しい時代に向け進める足を止めない。それは、この屋敷の中も例外ではなく、名前を呼ばれて振り返ると、座卓にはもう所狭しと料理が並べられ、平成最後の晩餐は、十六年生きてきてこれ迄目にした事の無い豪奢な姿をしてあたしを待っていた。
 用意された席に着くと、征十郎の重みのある声が部屋の空気を揺らす。
「御目出度う御座います」
 一拍、間を置いて
『御目出度う御座います』と一同の声が重なり、宴が始まった。
 ──うっきょ!近くで見ると更に凄いご馳走の数々。手の込んだ品々に目も喜ぶ。先《さっき》まで逃げ出す事ばかり考えていた過去のあたしは遥か彼方に追いやって、料理を口へと運ぶ作業に没頭して行く。
 用意されていた食前酒の味に驚いて八重さんに作り方を訊ねると、山桃を五年焼酎に漬けた物を炭酸で割ったのだと教えてくれる。五年…店の品書きに加えるのは当分先の話しになりそうだ。無心で箸を使う内、アルコ―ルが程好く廻って来て、色々な螺子《ねじ》が弛んでくる。ピントを合わせるのにも手間の掛かる視界の中で、征十郎、それに辰雄と和男も、双葉と凜を前にして楽しそうに笑っていた。人が許容できる範囲を越えて人相の悪いこの野獣達も、笑えば案外見られる顔になるもんだなぁ…。等《など》と、霞の掛かった頭で思い巡らすあたし。うう、何だか暖かくて、幸せ…。
 ──満たされていればいる程、時の流れは悲しみを誘う程に早い。今まで生きてきた僅か許《ばかり》の人生を振り返って感傷的な気分に浸る間も無く、時計の進みを伴《とも》として、三十年余りの平成という一つの時代が呆気なく終わって行った。お疲れ様でした。