~その夜~
──二人掛かりで一時間半。それは夏美さんが従業員達の帰った後、一人でやっていた片付けと掃除に掛かった時間。これを夏の間ずっと…。水洗いを終えゴミひとつ無い調理場の床に、溜め息を一つ落とす。
一通りの確認が終わり調理場を出ると、一足先に片付けを終えた一樹達が、煙草を吹かして時間を遣り過ごしていた。10時15分。今度こそ本当に長い一日が終わった。
みんな揃って店を出る。戸締まりを終えた海斗が、あたし達に向かって頭を下げた。「本当にありがとう」言って、顔を上げきる前に振り向き、砂の上を走って行く。──さすがに男の子だった。悔しいけど、あたしに駆け出す元気は残っていない。「行くか」一樹の声に皆が頷いた。日曜日には会社に顔を出さなきゃいけない男共の都合もあって、遅くとも明日の夜には東京に向けて出発しなきゃならないあたし達。この海岸からこうして星を見上げるのも、今年はこれが最後になるだろう。そう言えばこの町に来てから、落ち着いて夜空を見たのも今夜が始めてだった。そう考えると、最初で最後か…。とりとめも無く、大した意味も無い感傷に浸る頭をほったらかしにして、皆が進むのに任せて足を動かしていた。
……ん?あれっ?ここって…?民宿通り過ぎて…。
「ねえ、何でこっち──」
「シッ」あたしの声に振り返った力也が、口の前で人差し指を立てる。それと殆ど同じタイミングで、力也の前を歩いていた太一と一樹も同じポ-ズで振り返った。いや、だって…、尚も口を開きかけるあたしに、力也が立てた人差し指をそのまま前方に向けて倒す。──成る程、前を歩く人影があった。…海斗。前方を小走りで歩いて行くのは、間違い無く、先に帰った筈の海斗だった。──又、無言のまま皆が歩き出す。あたしの後ろを歩くだんごも察しがついたのか、ひとつ表情を固い物にして口をつぐんだ。
そのまま暫く進むと、あたし達の耳にあの暴走族連中の騒ぐ声が聞こえてきた。焚き火でもしているのか踊るような不安定な光が、大野屋の裏手の辺りを暗がりに際立たせている。歩調を変える事無く、その明かりに向かって、大野屋の店先を裏手へと回る海斗。あたし達は少し足を早めて、海斗とは逆に大野屋の表側、店の入口がある方へと急いだ。引き戸の閉められた入口の前を通り過ぎ、店の端から首を伸ばして覗き込むと、店の横手にはプロパンガスやビ-ルの空きケ-ス、一目で久しく使われていないと分かるテ-ブルや椅子が津造作に置かれているのが見えた。太一、力也、一樹の三人が、素早くそれ等の陰に身を隠すように蹲《しゃが》み込む。その後ろであたしとだんごは、店の角から顔だけを出すようにして、事の成り行きを見守る。それ迄は耳の大半を占めていた潮騒のざわめきが、今では暴走族の揚げる物音や笑い声にその位置を譲って、海もあたし達と距離を置くと決めたようだった。
焚き火の周りには、数日前と同じ位の人数が今日も集まっている。近付いて来る海斗に気付いたその内の何人かが立ち上がり、罵声を投げ付けた。
「何しに来た!」「今日はお母ちゃんと一緒じゃねえのか!」「帰れ帰れ!」
焚き火の奥には勇司と呼ばれるリ-ダ-格の男、海斗の話していた亡くなった浩司君のお兄さんもいる。その脇には、勝と潤。坊主頭のマッチョと、オ-ルバックの針金眉毛。その三人を取り巻く十人程の男達の輪から二メ-トル程手前で、海斗は歩みを止めた。輪の中からは相手を怯えさせる為に目一杯飾り付けた蛮声が、海斗に向かって次々と飛んで来る。
「帰れって言ってんのが分かんねえのか!」「やっちまうぞガキ!」「人殺し野郎!」「足震えてんじゃねえのか!」
受け止める海斗は、立ち止まってからまだ一言も発していない。
その時、絶え間無く投げつけられる罵詈雑言に紛れ炎の明かりを反射した物体が飛んできて、海斗の着ているTシャツの肩口に打つかって砂浜に転がった。鈍く光るヴィヴィッドカラーの無機質な物体。その飲み差しの空き缶は、地面に落ちる直前、海斗の肩から腰の辺りまでを黒い液体で汚す事に成功していて、投げた持ち主の意図する処を忠実に実行し、その役目を見事に果たしていた。
──「まだだ…」
飛び出して行こうとする太一の躰を、力也が後ろから押さえ付ける。振り返ってだんごの顔を見ると、だんごも黙って首を横に振る。太一の躰も、押さえている力也の腕も、込められた力の大きさを表すように小刻みに震えていた。力也もだんごも何かを待っているんだろうか。…何を?口から零れそうになる言葉を噛み潰して呑み込むあたし。
「──れよ」
「あん?」
「謝れ!!」海斗の口から出たとは思えない尖った声が、暴走族達を黙らせ闇に刺さった。その背中はいつかの太一と重なって見える。あの時の太一は海斗の為に、今海斗は…。
「店を壊したのはお前達だろ!僕をからかったり嫌がらせをしたりするのは構わない。でも…、でも母さんに迷惑を掛けるのは許せない!謝れ!お前達みんなで母さんに謝れ!」
あたしから見えているのは海斗の後ろ姿だけで、その表情を窺う事は出来ない。炎の明かりを受けて立つ、拳を固く握りしめた背中だけが、海斗の中に在る想いをあたしに伝えて来る。
集団の中から、坊主頭が一歩進み出る。勝と呼ばれるその男が口を開いた。
「ば~か。許せないって、許せなかったらどうするっつ-んだお前」
力也がポケットから取り出した携帯を忙《せわ》しく操作し始める。肩を叩かれて振り向くと、そこには双葉と優の姿が在った。頷く二人。瑠花が居ないのは夏美さんと一緒だからだろう。なんにせよ二人の顔は、夏美さんを無事送り届けた事を伝えている。あたしも頷き返して、海斗の後ろ姿に視線を戻した。
「お前がやったのか…」
海斗の言葉に勝が薄ら笑いを浮かべて答える。
「もし俺らがやったとしたらなんなんだ?警察にでも通報しようってのか、あん?証拠でもあんのかよ、なあ!それともお前が俺達全員ぶっとばしてみせるか?ふざけてんじゃねえぞ!こらぁ!」
黙り込む海斗に、今度は潤が嵩《かさ》に掛かって怒声を浴びせる。例の針金眉毛だ。
「あんまりガタガタ言ってると、せっかく直った店も、又壊されちまうぞ!それが嫌なら、これからは俺達がパトロ-ルしてやるから、お礼の替わりに明日から売り上げの金持って来い!」
『ぎゃははははははっ!!』取り巻き達の揚げるけたたましい笑い声が夜に響く。
男達の一人が焚き火に液体を掛けると、炎が一際激しく燃え上がった。手を叩きあい燥《はしゃ》ぐ男達の中で、勇司だけがつまらなそうに煙草を吹かしている。砂を蹴りあげ、勝が吠え立てた。
「今日は許してやるからもう帰れ!次からここに来る時はちゃんと金持ってくんだぞ!じゃねえと、ただじゃ帰さねえからな!」
太一に我慢出来たのはそこまでだった。立ち上がり、掴んだビ-ルケ-スを輪の中心に向かって投げ入れる。力也にも、もう止めようとする素振りは無い。──見事に焚き火の真上に落下したビ-ルケ-スが炎を弾けさせ、一握り程の炎の固まりを幾つも辺りに撒き散らす。「アチッ!」「うおっ!」「…!」「…!」「○◇♯□!」日本語の体を成さない奇声も飛び交って、騒然とする暴走族の様子に、少し胸の掬う気分を味わうあたし。──太一が海斗に駆け寄る。頷き合って、あたし達も建物の陰から月明かりの下に躰を晒した。
「お前らこの間の…」
誰かが口にしたその言葉には答えず、海斗に並んだ太一が怒りを懸命に押さえた口調で話し出す。
「…今お前達が喋った事は録音したからな。壊された店の様子も動画で残してある。なんだったら、これから警察相手にその勢いで話してみるか?海斗と夏美さんは警察には通報しないって言ったけど、俺達も一緒だと思うなよ!」
話の内容に…と言うより、その裏に在る太一の覚悟に気圧されたのか、暴走族達は余計な茶々を入れる事も無く、太一の言葉を耳に受け入れていた。尚も太一が続ける。
「今からお前らの中で三人選べ。俺達も三人選ぶ。一対一のタイマンだ。…″まさか″逃げないよな。お前達が勝ったら今度の事は忘れてやる。でももし俺達が勝ったら…、お前ら全員土下座して海斗と夏美さんに謝って貰う。…いいよな」
静まり返ったその場の空気を少しでも和ませようとしているのか、焚き火が木片や丸太を燃やす音だけが、パチパチと夜のしじまを崩そうともがいていた。
太一の狙いは分かった。まあ太一にそんな頭がある筈は無いので、さっきの携帯の録音といい、アイデアを出したのは力也だろうけど、…でもまあ、悪くない気はする。勝と潤の台詞を録音しただけじゃ暴走族全員を謝らせる事はちょっと出来そうも無いし…けど、それを盾に喧嘩しようと言われちゃ暴走族として断る訳には…ねえ。それに太一にしろ力也にしろ、喧嘩してる処は見た事無いけど、此処まで言う位だ、相応の自信はあるんだろう。一樹に関しては喧嘩は趣味みたいなもんだし、そうでもしなきゃ、あいつらが大人しく謝るなんて絶対と言ってもいい位ありそうも無いしね。成る程…上手い方法かも知れない。あ、飽くまでも昨日と今日の疲れは考えない事にしてだけど。まあ、三人共そんなにデリケ-トじゃないか。なにより太一自身、そんな事はもう、頭の中から消えてしまってるみたいだしね。結局、莫迦なんだろうな、三人共。
──焚き火を囲んでいた輪が小さくなっていく。さっきまでの騒々しさと打って変わって、潮風にすき取られた、よく聞き取れない程のボソボソとした話し声が、男達の胸に在る感情を伝えて来る。その間もあたしは一つの事だけを考えていた。それは…、暴走族がもしも全員であたし達を襲ったらどうするんだろうという事。頭の足りない男共は別として、優も双葉もなんでこんなに落ち着いていられるんだろう。廃材に腰掛けてのんびり煙草を吹かしている二人を見て、相反するよにあたしの不安は増していく。ものの二分も経った頃だろうか、この心配が杞憂に終わった事をあたしが知ったのは。と言うのも、暴走族達はその方法に考えが及ばない程にバカなのか、若しくはそこまで卑怯な真似をする程には、汚れていなかったからだ。焚き火を囲む輪の形を一直線に解《ほど》いた並びから、勝と潤、少しだけ間を置いて勇司が一歩前に出て、太一の言葉に対する答えを出した。
「最初は俺だ」
言って更にもう一歩進み出たのが勝。坊主頭のマッチョ。
「おい。──お前だよ。カワイイ顔したお兄ちゃん。初めて会った時、俺達の単車スマホで撮ってたお前!舐めやがって、出て来い!」
勝の指差した先、奇しくもご指名を頂いたのは一樹だった。選《よ》りに選って。…ああ、でもそうか、傍から見れば納得の人選かも知れない。力也は体格的に見て釣り合いの取れそうなのは勇司だけだし、一樹と太一は身長こそ変わらないものの、顔だけ見てどっちが強そうかと聞かれたら、十人が十人太一と答えるだろう。まずは一勝と考えた勝としては、至極真っ当な選択だった。タンクトップ一枚になった勝が、盛り上がった筋肉を見せつけるようにして、一樹を挑発する。
「俺が勝ったら勝ち残りで後の二人も相手してやるよ」
『うおぉ-っ!!』
自分が引き当てたのが大量山葵《わさび》入りシュ-クリ-ムだと未だ知る由もない勝の言葉に、他の暴走族達が盛大に歓声を揚げる。
それ迄あまり乗り気じゃない様に見えた一樹の眼がこれに反応を見せた。「おもしれえ」──本当に面白いのだろう、一樹の眼は嬉しそうに笑っている。暴走族側からは勝が、あたし達の中からは一樹が、お互いが二人の間にある距離を埋める為、相手に向けて歩みを進めて行く。──三メ-トル、二メ-トル、一メ-トル…。手を伸ばせば相手に届く、二人を隔てているのは、今やその程度の空間しかない。
「やっちゃえ勝さん!」「ぐちゃんぐちゃんにしちゃいましょう!」
余程自信が有るのか、勝の顔に浮かんだ笑みはこの段になっても消えていない。周りの連中も信頼しきっているのだろう、どの顔にも余裕の表情が浮かんで、これから始まる見世物を純粋に楽しみにしているのが分かった。あたしの見立てだと、体重差は20キロ近く有りそうだし、分厚い胸板に加えてタンクトップから剥き出しの腕は、一樹の二倍近く有るようにも見える。──一方、そんな勝を前にして立つ一樹は自然体で、さっき一瞬だけ見せたギラつきも今は影を潜め、静かな眼差しでゆっくりと周囲を見回していた。
「どこ見てんだよ!」
その言葉の振動が消えるより先に、勝の右拳が一樹目掛けて繰り出されていた。──不意打ち。一樹の頭が沈む。空を切った自分の右拳に、信じられないと言った表情が勝の顔に浮かんだ。沈んだ一樹の躰がバネみたいに弾んで、勝の肩の高さまで一気に跳ね上がる。──出ました。一樹の十八番、ドロップキック。何時もより低く感じるのは、足下が砂の所為だろうか。一樹の蹴りを胸に受けた勝がたたらを踏んで、二歩、三歩と後退する。…驚いた、倒れない。今まで飽きる程見てきた、一樹の喧嘩相手の誰もが、あのドロップキックで吹っ飛ぶ姿。なのに…。あたしは半ば唖然として太一の顔を見る。そこにはやっぱり、見た事も無い手品を見せられた表情が在った。力也にも、だんごの顔にも。只、勝の顔からもさっきまでのにやけた笑みは消えていた。換わりに額には汗の粒が浮いている。一樹は…。
一樹は何事も無かったかのように、同じ場所で、同じ表情を浮かべて立っていた。その顔を見ると、自分が今、喧嘩をしている実感さえ無いんじゃないかと疑ってしまう。
「余裕見せてんじゃねえぞこらあ!」
眼を血走らせた勝が右足を振り上げる。唸りを上げた廻し蹴りが、吸い込まれるみたいに一樹の左脇腹に決まった。「ドムンッ」と、肉を打つ鈍い音が重く響く。一樹が倒れ……ると皆が瞬き後、崩れ掛かった一樹の躰が横っ腹に受けた勝の右足を抱え込んだまま、くるりと弧を描いた。──ドラゴンスクリュ-。パパの好きだった武藤敬司の得意技だ。「ぐぅぉあっ…」あたしが見たビデオの中で、解説のマサ斉藤さんが膝関節が壊れる事もある危険な技だと仰っていたのを覚えている。いくら喧嘩とは言え、一樹がこんなに危ない技を使うなんて……。怒ってたんだ一樹も。Tシャツに付いた砂を払いながら、倒れた勝を見下ろして立つ一樹。その足元では、勝が右足を押さえて、顔を苦痛に歪ませている。
「俺もな、暴走族とか嫌いじゃねえけどよ。その年んなりゃあやっていい事と悪い事ぐれえは分かんだろ」
話す一樹は、もう勝を見ていない。その言葉も話し方も、別に誰かに向けてという訳でも無く、砂の上に放り出すよなどこか投げ遣りな物だった。
「うるせえ-っ!」
ふらつきながらも、勝が歯を喰いしばって立ち上がる。けど、もうその右足は直面《まとも》に地面を踏む事は出来ないみたいだった。それでも、砕けたプライドの欠片を掻き集め、必死の形相で前に出る。片足を引き摺るようにしながら。倒れそうになりながらも、勝はもう一度右の拳を突きだした。──無理だ。五体満足の状態で、不意を突くよな真似をしてまで殴り掛かった最初の一撃さえ、あれ程簡単にかわされたのに…。今の状態で当たる筈が無い事は、女のあたしでさえノ-タイムで分かる。──「死ぬんじゃねえぞ」呟く程の一樹の声が、驚く位近くに聞こえた。避けるというより、少しだけ躰を傾けるようにして拳をかわすと、体勢を崩した勝の後ろに回り込む一樹。そのまま背後から勝の腹に腕を回すと、ガッチリと両手をクラッチする。──嘘、あれって…。
「ばっ…やめ…」
危険を察知した勝の両手が宙を掻き毟《むし》る。一樹が「シュッ」と短く息を吐くと、勝の躰がふわりと宙に浮いて、その両足が砂浜から離れた。──うっわっ!バックドロップだ。御存知、プロレスの神様カールゴッチの必殺技。月明かりの下焚き火の不安定な揺らめきを受け、夜の帳の中ある種幻想的に浮かび上がった勝の躰が、空中で綺麗な半円をなぞる。
重たい物が砂に落ちる詰まった短い音が、風よりも控え目に炎を揺らした。潮風が砂を撫でる音まで聴こえそうな静寂。
一樹がゆっくりと躰を起こす。勝は動かない。…動ける訳ないか…。
『勝さん!?』
泣き出しそうな顔をした男達が、一樹を押し退け勝の周りに集まって来る。煙草を咥えた一樹があたし達の傍に戻って来た。太一が右手を挙げて迎える。「やり過ぎたんじゃねえのか」
一樹の右手がその手を「パンッ」と、小気味のいい音を立てて叩いた。「頑丈そうだから大丈夫だろ」
勝を囲むようにしてたっている男達に向かって、今度は太一が歩き出す。後ろ姿を見送るあたしの中で、ふと引っ掛かる物があって力也に聞いてみた。
「ねぇ。太一って喧嘩強かったっけ?」
これっぽっちの考える素振りも見せずに返ってきた力也の答えは、「強くはないな」だった。
「はぁ?」
じゃあ、ここまでの自信満々の態度はなんだったんだ。いや、もうそれなら、一樹がそのまんま残ってもう一戦した方が良かったんじゃないの?頭に浮かんだ言葉を伝えようとすると、察したような眼差しをあたしに向け、力也が言葉を付け足す。
「でもな、俺の知ってる限り、一樹と喧嘩して負けてないのはあいつだけだ」
…マジっすか。目の端で一樹が笑った気がして、顔を振ろうとするあたしを太一の声が止めた。
「次はどっちだ」
太一の言葉が触れた事に依って、勝を囲んだ男達の固まりが蠢《うごめ》き出す。余裕が有るのか太一の声は落ち着いていた。子供の頃から見ている中で、これ程男らしい太一を見るのも珍しい。
未だ意識のはっきりしていない勝の傍《かたわ》らに座り込んでいた潤が立ち上がる。煙草の吸い差しを焚き火に投げ入れると、太一に向かって歩き出した。その眼に宿る光は明らかに常軌を逸している。
「調子に乗りやがって…」絞り出すように言った潤の右拳が、太一の眼前に突き出されるのと同時に開いた。咄嗟に顔を手で覆う太一。──砂。座っていた時に握り込んでいたんだろう。視界を塞がれた太一に、潤が低い体勢で突っ込んだ。二人の躰が縺れ合い砂の上を転がる。一転、二転…。上を取った潤が、間髪を入れず拳を振り下ろす。一発。二発。三発、四、五…。止まらない。殴られながらも突き上げた太一の右膝が潤の背中を蹴りつける。前のめりになった潤の躰を今度は左手で引っ張って、自分の躰を潤の下から逃がす太一。──勢いそのまま立ち上がる二人。『!』うぅわっ、酷《ひど》っ。一分も掛からず、太一の顔は血に染まって真っ赤だった。瞼の上が大きく切れていて、流れ出る血は左目の視界を塞いでしまっている。言っちゃえば、あっという間にズタボロだった。序《つい》でに言うなら、さっきの男らしい云々の件《くだり》は撤回する事にする。あの根拠の無い自信と余裕は、一体何処から来ていたんだろう。全く以《もっ》て不可思議な生き物だ。
「あ~あ」
呑気な力也の声にイラッと来て、反射的に噛みつく。
「″あ~あ″じゃないでしょ。大丈夫なのあれ!?」
「やばいな」
「ああ、やばい」力也の言葉に一樹が重ねる。
「やばいって…。一樹でも太一には勝てないんじゃなかったの!?」
「ああ。どれだけぶっ倒れたって、あいつは負けを認めねえからな」
「は?」
…ああ、そういう事。要するに、負けたと本人が認める迄は負けじゃないって言う、″あれ″ね。まあ確かに、喧嘩にはスリ-カウントもTKOも無いだろうけどさ…。
太一と向き合った潤が左へ左へと躰を運ぶ。左目が見え辛いのか、太一の動きはどこかおかしい。右目だけで相手を見ようとしているのが、不恰好な頭の動きで遠目にも分かる。
「あの様子だと、左目は見えてないな」
「そうみたいだな。」
力也の言葉を返して、マッチで煙草に火を点ける一樹。力也もそのマッチに咥えた煙草を寄せた。後ろに居るだんごと双葉、優の三人は黙ってビ-ルケ-スに腰を下ろしている。立っているのは横に居る海斗とあたしだけ。夜空に浮かぶ月を一度見上げて、あたしも煙草を咥えた。心配するのはもう止めた。ああだこうだ言ってみた処で、あたし達に出来る事と言えば、目を開けてる事と、煙草を吸う事位だったから…。
「ガッ、ゴッ、ゴッ…」
潤の拳は面白いように太一の顔面を捉えている。百発百中、ハズレ無しだ。右、斜め上、左下、パンチングボ-ルみたいに太一の顔が弾ける。パンチの数を数えるのも途中から諦めた。太一にとってはただ殴られるだけの時間。煙草一本分にも満たない、短く、そして永遠にも感じる濃密な時間。太一の口から吐き出された目を疑う程の大量の血が、吸い込まれるのを嫌がって、束の間、砂の上に鮮やかな朱を散らす。それでも倒れない。太一はまだ立っている。
助走をつけた潤の右足が、太一の腹を突き刺すように真っ直ぐ伸びた。吹き飛ばされるように転がって、砂の上に大の字になる太一。──終わった。少なくとも潤と暴走族達の顔は、そう信じている胸の内を表情に表している。遠目に見る太一の躰。胸は上下に動いている。大丈夫…死んじゃいない。
「ハァ…ハァ…、ふざけやがって…。おいお前ら!″次はどっちだ″」
『ギャハハハハハハッ!!』
息を切らしながらも太一の言葉をそっくり返した潤に、暴走族達が精一杯の虚勢を張った笑い声を揚げる。一樹と力也は何の反応も返さない。あたしは太一だけを見ていた。何でだろう、勝負はついた筈なのに…。あたしには何故だか分かったんだ。太一が起き上がるって。それは予感じゃなくて確信だった。
──「いたたた…」
潤の背後で太一が上半身を起こす。そっちに顔を向けている一樹と力也にも、その姿は当然見えている筈だ。それでも当然のように二人共声は出さない。あたし達も。今なら太一のチャンスだ。潤の周りに居る連中も此方を向いていて、誰一人太一に気付いていない。──行けっ!
「おいっ!まだ終わってねえぞ!」
……へ?太一の声に潤と他の連中が一斉に振り向いた。「バカなんだろうな」と力也。「間違いねえ」と一樹。後ろで双葉が吹き出した。暴走族達が、もう一度太一と潤を囲むように形を変える。
「もういいよ…」
隣で洩れた海斗の微かな呟きを、あたしの耳が拾った。「えっ」と聞き返す。その言葉の意味を、それが本心から出た言葉なのかを…。
「…もういいよ。太一兄ちゃんあんなボロボロになって…、もう十分だよ…」
今度の言葉はちゃんとみんなにも聞こえたみたいで、一樹と力也も振り返った。少し表情を硬くして力也が口を開く。
「なあ海斗。太一は別にお前の為にこんな事してるんじゃないぞ。一樹もな。俺達は俺達の為にやってるんだ。一樹も太一も俺だって、店を手伝っただんご…はなみ達だって…。みんなこのまんま黙って、明日になったらさようならなんて真似、自分の為にしたくないだけなんだ。言ってる事分かるよな」
力也は噛んで含めるよな言い方で、静かに言葉を伝えていた。一樹は何も言わずに只、海斗を見詰めている。
──力也と一樹の言葉と気持ちは、海斗の胸にも染み入ったみたいだった。俯いた海斗の足下で砂の色がポツンポツンと変わっていく。
「太一兄ちゃ-ん!」
海斗の声が潤の脇を抜けて太一に届く。腫れた瞼と出血の所為で、何が何だか分からない顔になった太一が、ひとつ頷くのが見えた。
「…しつけえな」言いながら、潤が一歩踏み出そうとしたその時、太一の方が一瞬早く、ラグビ-のタックルみたいに頭から突っ込んだ。縺れ合い絡まりながら、躰の位置を上下に入れ換え転がる二人。動きが止まって、二人の躰が離れる。立ち上がろうとする最中、互いの視線が交差して、膝立ちのまま互いにパンチを繰り出す潤と太一。「ガッ…」一発目は相打ち。距離を取ろうとする潤の胸ぐらを太一が掴む。此処で離したら、もう捕まえるのは難しいと太一も分かってるんだ。「ゴッ…」又相打ち。潤も立ち上がるのを諦め覚悟を決めたのか、左手で太一の肩口を掴んだまま右手を振り回す。「ガッ…」三回目。これも相打ち。二人共、避ける事なんて頭に無さそうだった。──四発目。潤の方が頭の振れ幅が激しく見える。五発目。潤の振り上げる腕の動きが鈍い。太一のシャツを掴んでいる左手にも力が感じられない。六発、七発。潤の両腕が完全に動きを止めた。八発、九発。「ガッ、ゴッ」尚、大きく振りかぶった太一の右腕を力也が掴んだ。
「おしまいだ太一」
太一の左手から離れた潤の躰は、意識が途切れているのか頭から砂の上に倒れた。
立ち上がろうとした太一の躰が砂に足を取られて揺らぐ、それを又、力也の両手が支えた。
力也の肩に腕を回して太一が戻って来る。形はどうあれ、これでもう太一達の二勝。勇司が三人を相手にするとなれば話は別かも知れないけど、あまり現実味のある話じゃない。太一達の勝ちは決まった。
「どうする?勇司だっけ、まだやるか?」
力也の言葉に、男達が勇司を振り返る。それまで置物のように動かなかったその男は、ゆっくりと首を振った。
「明日になったらみんなで風林屋に詫びを入れに行く。それでいいだろ」
『勇司さん!…』
勇司の周りにいる男達が唇を噛む。受け入れたくないとは言え、目の前に存在する結果から、皆それ以上言葉を繋げずに居るのが伝わって来る。
「違う!」
暗がりから飛ぶ嗄《しゃが》れ声。立っていた暴走族の内の何人かが左右に分かれる。焚き火の明かりがその間を割って、声を投げた本人を照らした。──勝。意識を取り戻した勝が両腕を男達の肩に回して、焚き火の傍までびっこを曳《ひ》きながら躰を運んで来る。ぼそゝと一言二言周りの男達に声を掛けると、勇司の隣に並んで、持って来させた椅子に腰を下ろした。
「風林屋の件は俺達が勝手にやった事だ。勇司さんは関係無い。」
勝の言葉に他の連中が黙ったまま頷く。
「中学の時の海斗の虐めも、俺達が勇司さんに内緒で後輩にやらせてたんだ。勇司さんは昔から海斗とも遊んでたし、仲がいいのも知ってたからな。…だけどな海斗、勇司さんがどんだけ浩司の事可愛がってたのか、お前だって分かってんだろ!浩司じゃなくてお前が死──」
其処まで口にした勝の胸元を勇司が掴んで言葉は途切れた。他の男達の中からも声が揚がる。
「でも勇司さん!俺ら知ってんすよ。墓参りのの度に勇司さんが浩司に話し掛けて泣いてんの!」
「僕だって知ってるよ!」その声の出処はあたしの隣だった。
「海斗…」
勇司だけじやなく、その場に居る全員の視線が海斗に集まる。威嚇、侮蔑、困惑、様々な思惑の入り交じった視線を受け止める海斗の眼差しは、そのどれひとつも相手にせず勇司一人を見ていた。
「勇司君がどんなに浩司の事可愛がってたのかなら、幼馴染みだった僕の方が良く知ってる。小さい頃は三人でよく遊んでたしね。浩司が居なくなって、勇司君がどんだけ悲しんだのかだって、僕にも少しは分かっているつもりだよ。あの時…勇司君は浩司が死んだ事で僕を責めなかったよね…。でも…でも僕は、会うたびに目を背けるだけの…、そんな勇司君を見ていて悲しかった。何で…何で何も言ってくれなかったの?責められたっていい。殴られたっていい。汚い物を見るような…そんな目で見られる位なら、何をされたってよかった!なのに…なのに何で…」
「勝手な事言ってんじゃねえ!」
怒鳴ってはみたものの、勝もそれ以上言葉を繋げない。他の誰だって、この二人の間に持ち込める言葉なんて持っている筈が無かった。勿論太一も。
「…僕が三人目だ」
海斗が…恐らくだけど勇司に向けたであろうその一言は、皆の予想の範疇《はんちゅう》を超えていたのか、誰一人として反応を返す事が出来なかった。
あたしを含めた此処に居る全員が、黙ったまま海斗に視線を集める。しかし、今度はその視線の意味する処は全て共通している。──驚愕。
「三対三の最後の一人。そっちは勇司君だろ、こっちは僕がやる。いいよね力也君」
「海斗…お前…」
言葉に詰まった力也が太一に顔を向ける。見合わせた太一が笑った。……これはまあ、多分と言う事だけど…。腫れ上がって目鼻も怪しくなった顔が、なんとなくだけど、あたしには笑ったように見えたんだ。そしてその顔を今度は海斗に向け、小さく頷いて見せる太一。
数分と時を掛けず、あたし達と暴走族の男共に依って作られた、歪《いびつ》な輪の真ん中に、海斗が裸足で立った。その前に立つ勇司は、それでもまだ気持ちが決まらないのか、この場には不似合いな虚ろな表情で、頭ひとつ低い処にある海斗の顔を眺めている。
「手加減は無しだよ!」
海斗の言葉にも、勇司は何の反応も見せない。そもゝ、自分が当事者である事すら意識の内に無いような、傍から見ると、そんな感じにさえ見える立ち姿だった。暴走族の男達も、これから目の前で始まろうとしている事がどんな意味を持つ物なのか計りかねて、茲《ここ》に於いては、只成り行きを見守るだけの傍観者だった。
「いいからぶっ飛ばしちまえよ勇司さん!」
言葉と似つかわしくない翳りをその顔に落として勝が叫ぶ。もしかしたら勝にも、勇司の胸の内に在るであろう埋まらない空洞が分かるのかも知れない。それを埋める方法が分からないだけなのかも…。あたし達に出来るのは何時だって人の気持ちを一生懸命考える事だけで、全てを推し量って最良の対処をする事など、未来永劫ないのだから。今、勇司と喧嘩しようとしている海斗も、海斗を虐め風林屋を壊した勝達も、突き詰めれば、やろうとしている事は案外似たよな事なのかも知れなかった。
どいつもこいつも莫迦ばっかりだ。ほんと男って…。
「いくよ勇司君!」
海斗が砂を蹴った。太一と勝の歳が同じだとして、勇司は勝より歳が上だろうから、海斗とは四つ以上違う計算になる。加えて身長差は約20センチ。体重差も考えると、大人と子供位の体格差。奇跡が起こったとしても、海斗が勝つ為にはそれでもまだちょっと足り無さそうに思える。
──頭から突っ込んだ海斗が軽く往《い》なされ、その勢いのまま全身を砂の上に滑らせる。立ち上がって、又頭から突っ込む海斗。今度は勇司に受け止められ、簡単に放り投げられて砂浜を転がる。
「もうやめろ海斗…」
立ち上がろうとする海斗に向けた勇司の声には余裕が感じられず、何故か追い詰められた切迫感が在った。
「…やめない」
反対に、立ち上がって勇司を見据える海斗の眼には、敵わない相手に向かっていく恐怖感みたいな物は一切感じられず、何処か解放されたよな喜びにも似た色が在った。
「勇司君、僕はやめないよ。勇司君こそ手加減は無しって言ったじゃないか。殴れよ!殴ってみろよ!」
言い捨て、又懲りもせず頭から突っ込んでいく。腰に受けた勇司が、今度は海斗の躰を起こすと、胸の辺りを前蹴りで突き放した。もんどり打って、面白いように転がっていく海斗の躰。
「ゴホッゴホッグッ…」
──静かだ。
気が付くと、大して大きくもない海斗の咳き込む音があたし達の耳を占有していて、それまで物音を立てる者が誰も居なかった事を知らされる。事実上、三人の内二人が勝った事で勝負はもう終わっている。だとしたら、この海斗と勇司の喧嘩に何の意味が有ると言うのか。誰にも正解の答えなんて出せないだろう。きっと海斗と勇司の二人だって…。でも、だとしても、少なくとも海斗だけは何かしらの答えが出ると…いや、必死に答えを出そうとしている。正解とか間違っているとかそんな事は関係なく、勇司と海斗、二人にしか出せない答えを…。
「海斗!がんばれ!」
──言っちゃった。残酷だろうか?どう足掻いても勝てそうもない相手に向かっていく海斗に、がんばれなんて言葉は。向かっていく事に意味が在ると信じる根拠は、海斗が勇司との間に在ると願う、頼り無くか細い子供の頃の絆だけだと言うのに…。
「立て海斗!」太一が叫んだ。
『がんばれ!』双葉と優も声を合わせる。
考えても仕方が無い。もう始まってしまったんだ。こんな言い方したらあれだけど、あんたも莫迦な男の一人なら、がんばれ、海斗。
──砂浜に両手を着いて海斗が躰を持ち上げる。そうだ…行け!
──二人掛かりで一時間半。それは夏美さんが従業員達の帰った後、一人でやっていた片付けと掃除に掛かった時間。これを夏の間ずっと…。水洗いを終えゴミひとつ無い調理場の床に、溜め息を一つ落とす。
一通りの確認が終わり調理場を出ると、一足先に片付けを終えた一樹達が、煙草を吹かして時間を遣り過ごしていた。10時15分。今度こそ本当に長い一日が終わった。
みんな揃って店を出る。戸締まりを終えた海斗が、あたし達に向かって頭を下げた。「本当にありがとう」言って、顔を上げきる前に振り向き、砂の上を走って行く。──さすがに男の子だった。悔しいけど、あたしに駆け出す元気は残っていない。「行くか」一樹の声に皆が頷いた。日曜日には会社に顔を出さなきゃいけない男共の都合もあって、遅くとも明日の夜には東京に向けて出発しなきゃならないあたし達。この海岸からこうして星を見上げるのも、今年はこれが最後になるだろう。そう言えばこの町に来てから、落ち着いて夜空を見たのも今夜が始めてだった。そう考えると、最初で最後か…。とりとめも無く、大した意味も無い感傷に浸る頭をほったらかしにして、皆が進むのに任せて足を動かしていた。
……ん?あれっ?ここって…?民宿通り過ぎて…。
「ねえ、何でこっち──」
「シッ」あたしの声に振り返った力也が、口の前で人差し指を立てる。それと殆ど同じタイミングで、力也の前を歩いていた太一と一樹も同じポ-ズで振り返った。いや、だって…、尚も口を開きかけるあたしに、力也が立てた人差し指をそのまま前方に向けて倒す。──成る程、前を歩く人影があった。…海斗。前方を小走りで歩いて行くのは、間違い無く、先に帰った筈の海斗だった。──又、無言のまま皆が歩き出す。あたしの後ろを歩くだんごも察しがついたのか、ひとつ表情を固い物にして口をつぐんだ。
そのまま暫く進むと、あたし達の耳にあの暴走族連中の騒ぐ声が聞こえてきた。焚き火でもしているのか踊るような不安定な光が、大野屋の裏手の辺りを暗がりに際立たせている。歩調を変える事無く、その明かりに向かって、大野屋の店先を裏手へと回る海斗。あたし達は少し足を早めて、海斗とは逆に大野屋の表側、店の入口がある方へと急いだ。引き戸の閉められた入口の前を通り過ぎ、店の端から首を伸ばして覗き込むと、店の横手にはプロパンガスやビ-ルの空きケ-ス、一目で久しく使われていないと分かるテ-ブルや椅子が津造作に置かれているのが見えた。太一、力也、一樹の三人が、素早くそれ等の陰に身を隠すように蹲《しゃが》み込む。その後ろであたしとだんごは、店の角から顔だけを出すようにして、事の成り行きを見守る。それ迄は耳の大半を占めていた潮騒のざわめきが、今では暴走族の揚げる物音や笑い声にその位置を譲って、海もあたし達と距離を置くと決めたようだった。
焚き火の周りには、数日前と同じ位の人数が今日も集まっている。近付いて来る海斗に気付いたその内の何人かが立ち上がり、罵声を投げ付けた。
「何しに来た!」「今日はお母ちゃんと一緒じゃねえのか!」「帰れ帰れ!」
焚き火の奥には勇司と呼ばれるリ-ダ-格の男、海斗の話していた亡くなった浩司君のお兄さんもいる。その脇には、勝と潤。坊主頭のマッチョと、オ-ルバックの針金眉毛。その三人を取り巻く十人程の男達の輪から二メ-トル程手前で、海斗は歩みを止めた。輪の中からは相手を怯えさせる為に目一杯飾り付けた蛮声が、海斗に向かって次々と飛んで来る。
「帰れって言ってんのが分かんねえのか!」「やっちまうぞガキ!」「人殺し野郎!」「足震えてんじゃねえのか!」
受け止める海斗は、立ち止まってからまだ一言も発していない。
その時、絶え間無く投げつけられる罵詈雑言に紛れ炎の明かりを反射した物体が飛んできて、海斗の着ているTシャツの肩口に打つかって砂浜に転がった。鈍く光るヴィヴィッドカラーの無機質な物体。その飲み差しの空き缶は、地面に落ちる直前、海斗の肩から腰の辺りまでを黒い液体で汚す事に成功していて、投げた持ち主の意図する処を忠実に実行し、その役目を見事に果たしていた。
──「まだだ…」
飛び出して行こうとする太一の躰を、力也が後ろから押さえ付ける。振り返ってだんごの顔を見ると、だんごも黙って首を横に振る。太一の躰も、押さえている力也の腕も、込められた力の大きさを表すように小刻みに震えていた。力也もだんごも何かを待っているんだろうか。…何を?口から零れそうになる言葉を噛み潰して呑み込むあたし。
「──れよ」
「あん?」
「謝れ!!」海斗の口から出たとは思えない尖った声が、暴走族達を黙らせ闇に刺さった。その背中はいつかの太一と重なって見える。あの時の太一は海斗の為に、今海斗は…。
「店を壊したのはお前達だろ!僕をからかったり嫌がらせをしたりするのは構わない。でも…、でも母さんに迷惑を掛けるのは許せない!謝れ!お前達みんなで母さんに謝れ!」
あたしから見えているのは海斗の後ろ姿だけで、その表情を窺う事は出来ない。炎の明かりを受けて立つ、拳を固く握りしめた背中だけが、海斗の中に在る想いをあたしに伝えて来る。
集団の中から、坊主頭が一歩進み出る。勝と呼ばれるその男が口を開いた。
「ば~か。許せないって、許せなかったらどうするっつ-んだお前」
力也がポケットから取り出した携帯を忙《せわ》しく操作し始める。肩を叩かれて振り向くと、そこには双葉と優の姿が在った。頷く二人。瑠花が居ないのは夏美さんと一緒だからだろう。なんにせよ二人の顔は、夏美さんを無事送り届けた事を伝えている。あたしも頷き返して、海斗の後ろ姿に視線を戻した。
「お前がやったのか…」
海斗の言葉に勝が薄ら笑いを浮かべて答える。
「もし俺らがやったとしたらなんなんだ?警察にでも通報しようってのか、あん?証拠でもあんのかよ、なあ!それともお前が俺達全員ぶっとばしてみせるか?ふざけてんじゃねえぞ!こらぁ!」
黙り込む海斗に、今度は潤が嵩《かさ》に掛かって怒声を浴びせる。例の針金眉毛だ。
「あんまりガタガタ言ってると、せっかく直った店も、又壊されちまうぞ!それが嫌なら、これからは俺達がパトロ-ルしてやるから、お礼の替わりに明日から売り上げの金持って来い!」
『ぎゃははははははっ!!』取り巻き達の揚げるけたたましい笑い声が夜に響く。
男達の一人が焚き火に液体を掛けると、炎が一際激しく燃え上がった。手を叩きあい燥《はしゃ》ぐ男達の中で、勇司だけがつまらなそうに煙草を吹かしている。砂を蹴りあげ、勝が吠え立てた。
「今日は許してやるからもう帰れ!次からここに来る時はちゃんと金持ってくんだぞ!じゃねえと、ただじゃ帰さねえからな!」
太一に我慢出来たのはそこまでだった。立ち上がり、掴んだビ-ルケ-スを輪の中心に向かって投げ入れる。力也にも、もう止めようとする素振りは無い。──見事に焚き火の真上に落下したビ-ルケ-スが炎を弾けさせ、一握り程の炎の固まりを幾つも辺りに撒き散らす。「アチッ!」「うおっ!」「…!」「…!」「○◇♯□!」日本語の体を成さない奇声も飛び交って、騒然とする暴走族の様子に、少し胸の掬う気分を味わうあたし。──太一が海斗に駆け寄る。頷き合って、あたし達も建物の陰から月明かりの下に躰を晒した。
「お前らこの間の…」
誰かが口にしたその言葉には答えず、海斗に並んだ太一が怒りを懸命に押さえた口調で話し出す。
「…今お前達が喋った事は録音したからな。壊された店の様子も動画で残してある。なんだったら、これから警察相手にその勢いで話してみるか?海斗と夏美さんは警察には通報しないって言ったけど、俺達も一緒だと思うなよ!」
話の内容に…と言うより、その裏に在る太一の覚悟に気圧されたのか、暴走族達は余計な茶々を入れる事も無く、太一の言葉を耳に受け入れていた。尚も太一が続ける。
「今からお前らの中で三人選べ。俺達も三人選ぶ。一対一のタイマンだ。…″まさか″逃げないよな。お前達が勝ったら今度の事は忘れてやる。でももし俺達が勝ったら…、お前ら全員土下座して海斗と夏美さんに謝って貰う。…いいよな」
静まり返ったその場の空気を少しでも和ませようとしているのか、焚き火が木片や丸太を燃やす音だけが、パチパチと夜のしじまを崩そうともがいていた。
太一の狙いは分かった。まあ太一にそんな頭がある筈は無いので、さっきの携帯の録音といい、アイデアを出したのは力也だろうけど、…でもまあ、悪くない気はする。勝と潤の台詞を録音しただけじゃ暴走族全員を謝らせる事はちょっと出来そうも無いし…けど、それを盾に喧嘩しようと言われちゃ暴走族として断る訳には…ねえ。それに太一にしろ力也にしろ、喧嘩してる処は見た事無いけど、此処まで言う位だ、相応の自信はあるんだろう。一樹に関しては喧嘩は趣味みたいなもんだし、そうでもしなきゃ、あいつらが大人しく謝るなんて絶対と言ってもいい位ありそうも無いしね。成る程…上手い方法かも知れない。あ、飽くまでも昨日と今日の疲れは考えない事にしてだけど。まあ、三人共そんなにデリケ-トじゃないか。なにより太一自身、そんな事はもう、頭の中から消えてしまってるみたいだしね。結局、莫迦なんだろうな、三人共。
──焚き火を囲んでいた輪が小さくなっていく。さっきまでの騒々しさと打って変わって、潮風にすき取られた、よく聞き取れない程のボソボソとした話し声が、男達の胸に在る感情を伝えて来る。その間もあたしは一つの事だけを考えていた。それは…、暴走族がもしも全員であたし達を襲ったらどうするんだろうという事。頭の足りない男共は別として、優も双葉もなんでこんなに落ち着いていられるんだろう。廃材に腰掛けてのんびり煙草を吹かしている二人を見て、相反するよにあたしの不安は増していく。ものの二分も経った頃だろうか、この心配が杞憂に終わった事をあたしが知ったのは。と言うのも、暴走族達はその方法に考えが及ばない程にバカなのか、若しくはそこまで卑怯な真似をする程には、汚れていなかったからだ。焚き火を囲む輪の形を一直線に解《ほど》いた並びから、勝と潤、少しだけ間を置いて勇司が一歩前に出て、太一の言葉に対する答えを出した。
「最初は俺だ」
言って更にもう一歩進み出たのが勝。坊主頭のマッチョ。
「おい。──お前だよ。カワイイ顔したお兄ちゃん。初めて会った時、俺達の単車スマホで撮ってたお前!舐めやがって、出て来い!」
勝の指差した先、奇しくもご指名を頂いたのは一樹だった。選《よ》りに選って。…ああ、でもそうか、傍から見れば納得の人選かも知れない。力也は体格的に見て釣り合いの取れそうなのは勇司だけだし、一樹と太一は身長こそ変わらないものの、顔だけ見てどっちが強そうかと聞かれたら、十人が十人太一と答えるだろう。まずは一勝と考えた勝としては、至極真っ当な選択だった。タンクトップ一枚になった勝が、盛り上がった筋肉を見せつけるようにして、一樹を挑発する。
「俺が勝ったら勝ち残りで後の二人も相手してやるよ」
『うおぉ-っ!!』
自分が引き当てたのが大量山葵《わさび》入りシュ-クリ-ムだと未だ知る由もない勝の言葉に、他の暴走族達が盛大に歓声を揚げる。
それ迄あまり乗り気じゃない様に見えた一樹の眼がこれに反応を見せた。「おもしれえ」──本当に面白いのだろう、一樹の眼は嬉しそうに笑っている。暴走族側からは勝が、あたし達の中からは一樹が、お互いが二人の間にある距離を埋める為、相手に向けて歩みを進めて行く。──三メ-トル、二メ-トル、一メ-トル…。手を伸ばせば相手に届く、二人を隔てているのは、今やその程度の空間しかない。
「やっちゃえ勝さん!」「ぐちゃんぐちゃんにしちゃいましょう!」
余程自信が有るのか、勝の顔に浮かんだ笑みはこの段になっても消えていない。周りの連中も信頼しきっているのだろう、どの顔にも余裕の表情が浮かんで、これから始まる見世物を純粋に楽しみにしているのが分かった。あたしの見立てだと、体重差は20キロ近く有りそうだし、分厚い胸板に加えてタンクトップから剥き出しの腕は、一樹の二倍近く有るようにも見える。──一方、そんな勝を前にして立つ一樹は自然体で、さっき一瞬だけ見せたギラつきも今は影を潜め、静かな眼差しでゆっくりと周囲を見回していた。
「どこ見てんだよ!」
その言葉の振動が消えるより先に、勝の右拳が一樹目掛けて繰り出されていた。──不意打ち。一樹の頭が沈む。空を切った自分の右拳に、信じられないと言った表情が勝の顔に浮かんだ。沈んだ一樹の躰がバネみたいに弾んで、勝の肩の高さまで一気に跳ね上がる。──出ました。一樹の十八番、ドロップキック。何時もより低く感じるのは、足下が砂の所為だろうか。一樹の蹴りを胸に受けた勝がたたらを踏んで、二歩、三歩と後退する。…驚いた、倒れない。今まで飽きる程見てきた、一樹の喧嘩相手の誰もが、あのドロップキックで吹っ飛ぶ姿。なのに…。あたしは半ば唖然として太一の顔を見る。そこにはやっぱり、見た事も無い手品を見せられた表情が在った。力也にも、だんごの顔にも。只、勝の顔からもさっきまでのにやけた笑みは消えていた。換わりに額には汗の粒が浮いている。一樹は…。
一樹は何事も無かったかのように、同じ場所で、同じ表情を浮かべて立っていた。その顔を見ると、自分が今、喧嘩をしている実感さえ無いんじゃないかと疑ってしまう。
「余裕見せてんじゃねえぞこらあ!」
眼を血走らせた勝が右足を振り上げる。唸りを上げた廻し蹴りが、吸い込まれるみたいに一樹の左脇腹に決まった。「ドムンッ」と、肉を打つ鈍い音が重く響く。一樹が倒れ……ると皆が瞬き後、崩れ掛かった一樹の躰が横っ腹に受けた勝の右足を抱え込んだまま、くるりと弧を描いた。──ドラゴンスクリュ-。パパの好きだった武藤敬司の得意技だ。「ぐぅぉあっ…」あたしが見たビデオの中で、解説のマサ斉藤さんが膝関節が壊れる事もある危険な技だと仰っていたのを覚えている。いくら喧嘩とは言え、一樹がこんなに危ない技を使うなんて……。怒ってたんだ一樹も。Tシャツに付いた砂を払いながら、倒れた勝を見下ろして立つ一樹。その足元では、勝が右足を押さえて、顔を苦痛に歪ませている。
「俺もな、暴走族とか嫌いじゃねえけどよ。その年んなりゃあやっていい事と悪い事ぐれえは分かんだろ」
話す一樹は、もう勝を見ていない。その言葉も話し方も、別に誰かに向けてという訳でも無く、砂の上に放り出すよなどこか投げ遣りな物だった。
「うるせえ-っ!」
ふらつきながらも、勝が歯を喰いしばって立ち上がる。けど、もうその右足は直面《まとも》に地面を踏む事は出来ないみたいだった。それでも、砕けたプライドの欠片を掻き集め、必死の形相で前に出る。片足を引き摺るようにしながら。倒れそうになりながらも、勝はもう一度右の拳を突きだした。──無理だ。五体満足の状態で、不意を突くよな真似をしてまで殴り掛かった最初の一撃さえ、あれ程簡単にかわされたのに…。今の状態で当たる筈が無い事は、女のあたしでさえノ-タイムで分かる。──「死ぬんじゃねえぞ」呟く程の一樹の声が、驚く位近くに聞こえた。避けるというより、少しだけ躰を傾けるようにして拳をかわすと、体勢を崩した勝の後ろに回り込む一樹。そのまま背後から勝の腹に腕を回すと、ガッチリと両手をクラッチする。──嘘、あれって…。
「ばっ…やめ…」
危険を察知した勝の両手が宙を掻き毟《むし》る。一樹が「シュッ」と短く息を吐くと、勝の躰がふわりと宙に浮いて、その両足が砂浜から離れた。──うっわっ!バックドロップだ。御存知、プロレスの神様カールゴッチの必殺技。月明かりの下焚き火の不安定な揺らめきを受け、夜の帳の中ある種幻想的に浮かび上がった勝の躰が、空中で綺麗な半円をなぞる。
重たい物が砂に落ちる詰まった短い音が、風よりも控え目に炎を揺らした。潮風が砂を撫でる音まで聴こえそうな静寂。
一樹がゆっくりと躰を起こす。勝は動かない。…動ける訳ないか…。
『勝さん!?』
泣き出しそうな顔をした男達が、一樹を押し退け勝の周りに集まって来る。煙草を咥えた一樹があたし達の傍に戻って来た。太一が右手を挙げて迎える。「やり過ぎたんじゃねえのか」
一樹の右手がその手を「パンッ」と、小気味のいい音を立てて叩いた。「頑丈そうだから大丈夫だろ」
勝を囲むようにしてたっている男達に向かって、今度は太一が歩き出す。後ろ姿を見送るあたしの中で、ふと引っ掛かる物があって力也に聞いてみた。
「ねぇ。太一って喧嘩強かったっけ?」
これっぽっちの考える素振りも見せずに返ってきた力也の答えは、「強くはないな」だった。
「はぁ?」
じゃあ、ここまでの自信満々の態度はなんだったんだ。いや、もうそれなら、一樹がそのまんま残ってもう一戦した方が良かったんじゃないの?頭に浮かんだ言葉を伝えようとすると、察したような眼差しをあたしに向け、力也が言葉を付け足す。
「でもな、俺の知ってる限り、一樹と喧嘩して負けてないのはあいつだけだ」
…マジっすか。目の端で一樹が笑った気がして、顔を振ろうとするあたしを太一の声が止めた。
「次はどっちだ」
太一の言葉が触れた事に依って、勝を囲んだ男達の固まりが蠢《うごめ》き出す。余裕が有るのか太一の声は落ち着いていた。子供の頃から見ている中で、これ程男らしい太一を見るのも珍しい。
未だ意識のはっきりしていない勝の傍《かたわ》らに座り込んでいた潤が立ち上がる。煙草の吸い差しを焚き火に投げ入れると、太一に向かって歩き出した。その眼に宿る光は明らかに常軌を逸している。
「調子に乗りやがって…」絞り出すように言った潤の右拳が、太一の眼前に突き出されるのと同時に開いた。咄嗟に顔を手で覆う太一。──砂。座っていた時に握り込んでいたんだろう。視界を塞がれた太一に、潤が低い体勢で突っ込んだ。二人の躰が縺れ合い砂の上を転がる。一転、二転…。上を取った潤が、間髪を入れず拳を振り下ろす。一発。二発。三発、四、五…。止まらない。殴られながらも突き上げた太一の右膝が潤の背中を蹴りつける。前のめりになった潤の躰を今度は左手で引っ張って、自分の躰を潤の下から逃がす太一。──勢いそのまま立ち上がる二人。『!』うぅわっ、酷《ひど》っ。一分も掛からず、太一の顔は血に染まって真っ赤だった。瞼の上が大きく切れていて、流れ出る血は左目の視界を塞いでしまっている。言っちゃえば、あっという間にズタボロだった。序《つい》でに言うなら、さっきの男らしい云々の件《くだり》は撤回する事にする。あの根拠の無い自信と余裕は、一体何処から来ていたんだろう。全く以《もっ》て不可思議な生き物だ。
「あ~あ」
呑気な力也の声にイラッと来て、反射的に噛みつく。
「″あ~あ″じゃないでしょ。大丈夫なのあれ!?」
「やばいな」
「ああ、やばい」力也の言葉に一樹が重ねる。
「やばいって…。一樹でも太一には勝てないんじゃなかったの!?」
「ああ。どれだけぶっ倒れたって、あいつは負けを認めねえからな」
「は?」
…ああ、そういう事。要するに、負けたと本人が認める迄は負けじゃないって言う、″あれ″ね。まあ確かに、喧嘩にはスリ-カウントもTKOも無いだろうけどさ…。
太一と向き合った潤が左へ左へと躰を運ぶ。左目が見え辛いのか、太一の動きはどこかおかしい。右目だけで相手を見ようとしているのが、不恰好な頭の動きで遠目にも分かる。
「あの様子だと、左目は見えてないな」
「そうみたいだな。」
力也の言葉を返して、マッチで煙草に火を点ける一樹。力也もそのマッチに咥えた煙草を寄せた。後ろに居るだんごと双葉、優の三人は黙ってビ-ルケ-スに腰を下ろしている。立っているのは横に居る海斗とあたしだけ。夜空に浮かぶ月を一度見上げて、あたしも煙草を咥えた。心配するのはもう止めた。ああだこうだ言ってみた処で、あたし達に出来る事と言えば、目を開けてる事と、煙草を吸う事位だったから…。
「ガッ、ゴッ、ゴッ…」
潤の拳は面白いように太一の顔面を捉えている。百発百中、ハズレ無しだ。右、斜め上、左下、パンチングボ-ルみたいに太一の顔が弾ける。パンチの数を数えるのも途中から諦めた。太一にとってはただ殴られるだけの時間。煙草一本分にも満たない、短く、そして永遠にも感じる濃密な時間。太一の口から吐き出された目を疑う程の大量の血が、吸い込まれるのを嫌がって、束の間、砂の上に鮮やかな朱を散らす。それでも倒れない。太一はまだ立っている。
助走をつけた潤の右足が、太一の腹を突き刺すように真っ直ぐ伸びた。吹き飛ばされるように転がって、砂の上に大の字になる太一。──終わった。少なくとも潤と暴走族達の顔は、そう信じている胸の内を表情に表している。遠目に見る太一の躰。胸は上下に動いている。大丈夫…死んじゃいない。
「ハァ…ハァ…、ふざけやがって…。おいお前ら!″次はどっちだ″」
『ギャハハハハハハッ!!』
息を切らしながらも太一の言葉をそっくり返した潤に、暴走族達が精一杯の虚勢を張った笑い声を揚げる。一樹と力也は何の反応も返さない。あたしは太一だけを見ていた。何でだろう、勝負はついた筈なのに…。あたしには何故だか分かったんだ。太一が起き上がるって。それは予感じゃなくて確信だった。
──「いたたた…」
潤の背後で太一が上半身を起こす。そっちに顔を向けている一樹と力也にも、その姿は当然見えている筈だ。それでも当然のように二人共声は出さない。あたし達も。今なら太一のチャンスだ。潤の周りに居る連中も此方を向いていて、誰一人太一に気付いていない。──行けっ!
「おいっ!まだ終わってねえぞ!」
……へ?太一の声に潤と他の連中が一斉に振り向いた。「バカなんだろうな」と力也。「間違いねえ」と一樹。後ろで双葉が吹き出した。暴走族達が、もう一度太一と潤を囲むように形を変える。
「もういいよ…」
隣で洩れた海斗の微かな呟きを、あたしの耳が拾った。「えっ」と聞き返す。その言葉の意味を、それが本心から出た言葉なのかを…。
「…もういいよ。太一兄ちゃんあんなボロボロになって…、もう十分だよ…」
今度の言葉はちゃんとみんなにも聞こえたみたいで、一樹と力也も振り返った。少し表情を硬くして力也が口を開く。
「なあ海斗。太一は別にお前の為にこんな事してるんじゃないぞ。一樹もな。俺達は俺達の為にやってるんだ。一樹も太一も俺だって、店を手伝っただんご…はなみ達だって…。みんなこのまんま黙って、明日になったらさようならなんて真似、自分の為にしたくないだけなんだ。言ってる事分かるよな」
力也は噛んで含めるよな言い方で、静かに言葉を伝えていた。一樹は何も言わずに只、海斗を見詰めている。
──力也と一樹の言葉と気持ちは、海斗の胸にも染み入ったみたいだった。俯いた海斗の足下で砂の色がポツンポツンと変わっていく。
「太一兄ちゃ-ん!」
海斗の声が潤の脇を抜けて太一に届く。腫れた瞼と出血の所為で、何が何だか分からない顔になった太一が、ひとつ頷くのが見えた。
「…しつけえな」言いながら、潤が一歩踏み出そうとしたその時、太一の方が一瞬早く、ラグビ-のタックルみたいに頭から突っ込んだ。縺れ合い絡まりながら、躰の位置を上下に入れ換え転がる二人。動きが止まって、二人の躰が離れる。立ち上がろうとする最中、互いの視線が交差して、膝立ちのまま互いにパンチを繰り出す潤と太一。「ガッ…」一発目は相打ち。距離を取ろうとする潤の胸ぐらを太一が掴む。此処で離したら、もう捕まえるのは難しいと太一も分かってるんだ。「ゴッ…」又相打ち。潤も立ち上がるのを諦め覚悟を決めたのか、左手で太一の肩口を掴んだまま右手を振り回す。「ガッ…」三回目。これも相打ち。二人共、避ける事なんて頭に無さそうだった。──四発目。潤の方が頭の振れ幅が激しく見える。五発目。潤の振り上げる腕の動きが鈍い。太一のシャツを掴んでいる左手にも力が感じられない。六発、七発。潤の両腕が完全に動きを止めた。八発、九発。「ガッ、ゴッ」尚、大きく振りかぶった太一の右腕を力也が掴んだ。
「おしまいだ太一」
太一の左手から離れた潤の躰は、意識が途切れているのか頭から砂の上に倒れた。
立ち上がろうとした太一の躰が砂に足を取られて揺らぐ、それを又、力也の両手が支えた。
力也の肩に腕を回して太一が戻って来る。形はどうあれ、これでもう太一達の二勝。勇司が三人を相手にするとなれば話は別かも知れないけど、あまり現実味のある話じゃない。太一達の勝ちは決まった。
「どうする?勇司だっけ、まだやるか?」
力也の言葉に、男達が勇司を振り返る。それまで置物のように動かなかったその男は、ゆっくりと首を振った。
「明日になったらみんなで風林屋に詫びを入れに行く。それでいいだろ」
『勇司さん!…』
勇司の周りにいる男達が唇を噛む。受け入れたくないとは言え、目の前に存在する結果から、皆それ以上言葉を繋げずに居るのが伝わって来る。
「違う!」
暗がりから飛ぶ嗄《しゃが》れ声。立っていた暴走族の内の何人かが左右に分かれる。焚き火の明かりがその間を割って、声を投げた本人を照らした。──勝。意識を取り戻した勝が両腕を男達の肩に回して、焚き火の傍までびっこを曳《ひ》きながら躰を運んで来る。ぼそゝと一言二言周りの男達に声を掛けると、勇司の隣に並んで、持って来させた椅子に腰を下ろした。
「風林屋の件は俺達が勝手にやった事だ。勇司さんは関係無い。」
勝の言葉に他の連中が黙ったまま頷く。
「中学の時の海斗の虐めも、俺達が勇司さんに内緒で後輩にやらせてたんだ。勇司さんは昔から海斗とも遊んでたし、仲がいいのも知ってたからな。…だけどな海斗、勇司さんがどんだけ浩司の事可愛がってたのか、お前だって分かってんだろ!浩司じゃなくてお前が死──」
其処まで口にした勝の胸元を勇司が掴んで言葉は途切れた。他の男達の中からも声が揚がる。
「でも勇司さん!俺ら知ってんすよ。墓参りのの度に勇司さんが浩司に話し掛けて泣いてんの!」
「僕だって知ってるよ!」その声の出処はあたしの隣だった。
「海斗…」
勇司だけじやなく、その場に居る全員の視線が海斗に集まる。威嚇、侮蔑、困惑、様々な思惑の入り交じった視線を受け止める海斗の眼差しは、そのどれひとつも相手にせず勇司一人を見ていた。
「勇司君がどんなに浩司の事可愛がってたのかなら、幼馴染みだった僕の方が良く知ってる。小さい頃は三人でよく遊んでたしね。浩司が居なくなって、勇司君がどんだけ悲しんだのかだって、僕にも少しは分かっているつもりだよ。あの時…勇司君は浩司が死んだ事で僕を責めなかったよね…。でも…でも僕は、会うたびに目を背けるだけの…、そんな勇司君を見ていて悲しかった。何で…何で何も言ってくれなかったの?責められたっていい。殴られたっていい。汚い物を見るような…そんな目で見られる位なら、何をされたってよかった!なのに…なのに何で…」
「勝手な事言ってんじゃねえ!」
怒鳴ってはみたものの、勝もそれ以上言葉を繋げない。他の誰だって、この二人の間に持ち込める言葉なんて持っている筈が無かった。勿論太一も。
「…僕が三人目だ」
海斗が…恐らくだけど勇司に向けたであろうその一言は、皆の予想の範疇《はんちゅう》を超えていたのか、誰一人として反応を返す事が出来なかった。
あたしを含めた此処に居る全員が、黙ったまま海斗に視線を集める。しかし、今度はその視線の意味する処は全て共通している。──驚愕。
「三対三の最後の一人。そっちは勇司君だろ、こっちは僕がやる。いいよね力也君」
「海斗…お前…」
言葉に詰まった力也が太一に顔を向ける。見合わせた太一が笑った。……これはまあ、多分と言う事だけど…。腫れ上がって目鼻も怪しくなった顔が、なんとなくだけど、あたしには笑ったように見えたんだ。そしてその顔を今度は海斗に向け、小さく頷いて見せる太一。
数分と時を掛けず、あたし達と暴走族の男共に依って作られた、歪《いびつ》な輪の真ん中に、海斗が裸足で立った。その前に立つ勇司は、それでもまだ気持ちが決まらないのか、この場には不似合いな虚ろな表情で、頭ひとつ低い処にある海斗の顔を眺めている。
「手加減は無しだよ!」
海斗の言葉にも、勇司は何の反応も見せない。そもゝ、自分が当事者である事すら意識の内に無いような、傍から見ると、そんな感じにさえ見える立ち姿だった。暴走族の男達も、これから目の前で始まろうとしている事がどんな意味を持つ物なのか計りかねて、茲《ここ》に於いては、只成り行きを見守るだけの傍観者だった。
「いいからぶっ飛ばしちまえよ勇司さん!」
言葉と似つかわしくない翳りをその顔に落として勝が叫ぶ。もしかしたら勝にも、勇司の胸の内に在るであろう埋まらない空洞が分かるのかも知れない。それを埋める方法が分からないだけなのかも…。あたし達に出来るのは何時だって人の気持ちを一生懸命考える事だけで、全てを推し量って最良の対処をする事など、未来永劫ないのだから。今、勇司と喧嘩しようとしている海斗も、海斗を虐め風林屋を壊した勝達も、突き詰めれば、やろうとしている事は案外似たよな事なのかも知れなかった。
どいつもこいつも莫迦ばっかりだ。ほんと男って…。
「いくよ勇司君!」
海斗が砂を蹴った。太一と勝の歳が同じだとして、勇司は勝より歳が上だろうから、海斗とは四つ以上違う計算になる。加えて身長差は約20センチ。体重差も考えると、大人と子供位の体格差。奇跡が起こったとしても、海斗が勝つ為にはそれでもまだちょっと足り無さそうに思える。
──頭から突っ込んだ海斗が軽く往《い》なされ、その勢いのまま全身を砂の上に滑らせる。立ち上がって、又頭から突っ込む海斗。今度は勇司に受け止められ、簡単に放り投げられて砂浜を転がる。
「もうやめろ海斗…」
立ち上がろうとする海斗に向けた勇司の声には余裕が感じられず、何故か追い詰められた切迫感が在った。
「…やめない」
反対に、立ち上がって勇司を見据える海斗の眼には、敵わない相手に向かっていく恐怖感みたいな物は一切感じられず、何処か解放されたよな喜びにも似た色が在った。
「勇司君、僕はやめないよ。勇司君こそ手加減は無しって言ったじゃないか。殴れよ!殴ってみろよ!」
言い捨て、又懲りもせず頭から突っ込んでいく。腰に受けた勇司が、今度は海斗の躰を起こすと、胸の辺りを前蹴りで突き放した。もんどり打って、面白いように転がっていく海斗の躰。
「ゴホッゴホッグッ…」
──静かだ。
気が付くと、大して大きくもない海斗の咳き込む音があたし達の耳を占有していて、それまで物音を立てる者が誰も居なかった事を知らされる。事実上、三人の内二人が勝った事で勝負はもう終わっている。だとしたら、この海斗と勇司の喧嘩に何の意味が有ると言うのか。誰にも正解の答えなんて出せないだろう。きっと海斗と勇司の二人だって…。でも、だとしても、少なくとも海斗だけは何かしらの答えが出ると…いや、必死に答えを出そうとしている。正解とか間違っているとかそんな事は関係なく、勇司と海斗、二人にしか出せない答えを…。
「海斗!がんばれ!」
──言っちゃった。残酷だろうか?どう足掻いても勝てそうもない相手に向かっていく海斗に、がんばれなんて言葉は。向かっていく事に意味が在ると信じる根拠は、海斗が勇司との間に在ると願う、頼り無くか細い子供の頃の絆だけだと言うのに…。
「立て海斗!」太一が叫んだ。
『がんばれ!』双葉と優も声を合わせる。
考えても仕方が無い。もう始まってしまったんだ。こんな言い方したらあれだけど、あんたも莫迦な男の一人なら、がんばれ、海斗。
──砂浜に両手を着いて海斗が躰を持ち上げる。そうだ…行け!

