~R.1.8.16 リニュ-アル二日目~
翌朝。午前9時55分。
晴天も極まった真っ青な空の下、風林屋の前には昨日と変わらない景色が在った。店の中から入り口の硝子戸を僅かに開いて外の様子を窺うと、照りつく陽射しとやっさもっさの人熱《ひといき》れで、目に映る物全てが揺らいで見えた。
10時丁度、硝子戸が一気に開かれる。昨日と同じ熱気に包まれて、少しは慣れたのか、あたしは昨日より幾分スム-ズにトランス状態に落ちて行った。並ぶ伝票、並ぶ皿。夏美さんからあたし、あたしからだんごへと矢継ぎ早に指示が飛ぶ。本来、料理が与えてくれる筈の視覚、臭覚、味覚に訴える要素は次々と消え失せ、只の物体としか感じられなくなってくる病的な精神状態の中で、黙々と手を動かし続ける。黙々と、そして粛々と、斯《か》くして地球は回り、やがて陽が傾き始め、昨日と変わらない量の食材が消費されていった。口の端から締まりが無くなって、何を見ても笑い出したくなる精神ステ-ジまであたしとだんごが昇華した処で、天使のラッパが吹き鳴らされたのであった。「だんごくん、はなみちゃん。休憩して-」
──海岸で吸う労働後の一服。格別であります。これと同じ味思いだそうとしたってちょっと出てこない。
嵐は過ぎ去った。形はどうあれ二日間を乗り切った。だんごと二人空を見上げ、ゆっくりと長い旅路を進む夏雲に、何処か満足げな眼差しを向ける。不純な物を拒むよなあの雲の白さも、今は気後れせずに見ている事が出来た。
休憩が終わると、後は片付けと明日の仕込み。「もうあがってもいいよ」と言われた後も、だんごはなかゝ手を止めようとしなかった。明日は東京に帰る日で、あたし達が風林屋を手伝う予定は無い。太陽が沈んだ表情を見せるのに合わせて、海もその色を赤から紫、やがて墨の匂いの薫るよな黒色へと近付けていく。東京より少しだけ多目の星が空に蒔《ま》かれて、二日目は終了した。
閉店後、夏美さんに声を掛けられ店に残ったあたし達。この夜のドレスコ-ドは達成感に浸ったみんなの笑顔と、冷えた缶ビ-ル。
「みんなお疲れ様!本当にありがとう!」
『お疲れ様でした!乾杯!』
缶ビ-ルを上げる手が揃う。…うんまっ!忘れられなくなりそうな一口目の味を噛み締めていると、
「これ少ないんだけど、みんなに…」そう言って、太一に向かって差し出した夏美さんの手に、封筒が握られていた。──太一がみんなを見回す。
一人ゝの顔に望んでいた表情《もの》を認めて、満足げな、それでいてちょっと含羞《はにか》んだ笑顔を浮かべてから口を開いた。
「夏美さん。生意気な事言って悪いけど、そいつは貰えない。つうか、俺達の中にそれを受け取れる奴なんて居ないんだ」
言わせてくれたみんなを誇るよに、真っ直ぐ夏美さんを見詰める太一。夏美さんはその視線を受け取ると、恥ずかしそうに瞳を伏せた。
「…ごめんなさい。なんかあたし却《かえ》って…」
言いかけて夏美さんが口をつぐむ。太一もその続きはいらないと言うように笑った。
「夏美さん、ビ-ルもう一本いいっすか?」
「早すぎなんだよ、お前は!」
だんごに力也がツッコんで場が解《ほど》けた。みんなが思いゝの場所に腰を下ろす。まったりゆったり、時間が流れるのに任せて平和に夜が深《ふ》けていくものと安心し始めた頃、調理場に立とうとした夏美さんの躰が、急に支えを失ったみたいに崩れた。近くに居た力也が直ぐに走り寄って、倒れる寸前でその躰を抱き止める。
『夏美さん!!』
「大丈夫…。ちょっと立ち眩みがしただけ…」
その言葉を額面通り受け取るには、夏美さんの顔色は悪すぎた。──無理もないと思う。大切にしていた店が壊されて、ショックと不安を抱えたまま今度は眠らずに今まで経験した事の無いよな忙しさに追われて…。ひとり、誰に頼る訳にもいかない重圧に押し潰されそうになりながら。
「もう今日は帰った方がいいんじゃないの。私達が送って行くし」
瑠花の言葉に夏美さんが首を振る。「冷蔵庫の中とか、まだやらなきゃいけない事が残ってるから──」「あたしがやっときますから!」…今言ったのは…大丈夫、あたしだ。自覚もある。夏美さんの半分程しか生きていないあたしだけど、体力だけは負けてない筈だ。いける。全然大丈夫。
夏美さんもそれ以上空意地を張るような人じゃなかった。メモを残して大人しく店を後にする。万が一の事を考えて、夏美さんには瑠花、双葉、優の三人が付き添った。海斗は片付けと戸締まりの為店に残ると言って、表情を引き締めた。
よっしゃ!これが本当のもう一踏ん張り。渡されたメモを片手に調理場に向かう。店の方は早くも一樹達が手分けして海斗を手伝っていた。
「親方、何からやっちゃいます?」
──後ろからだんごの声。小学校の同級生は、知らない内になかゝいい男に育っていた。
「サンキュ」
なんとなく顔を見せるのが恥ずかしくて、あたしはメモに視線を落としたまま礼を返す。
翌朝。午前9時55分。
晴天も極まった真っ青な空の下、風林屋の前には昨日と変わらない景色が在った。店の中から入り口の硝子戸を僅かに開いて外の様子を窺うと、照りつく陽射しとやっさもっさの人熱《ひといき》れで、目に映る物全てが揺らいで見えた。
10時丁度、硝子戸が一気に開かれる。昨日と同じ熱気に包まれて、少しは慣れたのか、あたしは昨日より幾分スム-ズにトランス状態に落ちて行った。並ぶ伝票、並ぶ皿。夏美さんからあたし、あたしからだんごへと矢継ぎ早に指示が飛ぶ。本来、料理が与えてくれる筈の視覚、臭覚、味覚に訴える要素は次々と消え失せ、只の物体としか感じられなくなってくる病的な精神状態の中で、黙々と手を動かし続ける。黙々と、そして粛々と、斯《か》くして地球は回り、やがて陽が傾き始め、昨日と変わらない量の食材が消費されていった。口の端から締まりが無くなって、何を見ても笑い出したくなる精神ステ-ジまであたしとだんごが昇華した処で、天使のラッパが吹き鳴らされたのであった。「だんごくん、はなみちゃん。休憩して-」
──海岸で吸う労働後の一服。格別であります。これと同じ味思いだそうとしたってちょっと出てこない。
嵐は過ぎ去った。形はどうあれ二日間を乗り切った。だんごと二人空を見上げ、ゆっくりと長い旅路を進む夏雲に、何処か満足げな眼差しを向ける。不純な物を拒むよなあの雲の白さも、今は気後れせずに見ている事が出来た。
休憩が終わると、後は片付けと明日の仕込み。「もうあがってもいいよ」と言われた後も、だんごはなかゝ手を止めようとしなかった。明日は東京に帰る日で、あたし達が風林屋を手伝う予定は無い。太陽が沈んだ表情を見せるのに合わせて、海もその色を赤から紫、やがて墨の匂いの薫るよな黒色へと近付けていく。東京より少しだけ多目の星が空に蒔《ま》かれて、二日目は終了した。
閉店後、夏美さんに声を掛けられ店に残ったあたし達。この夜のドレスコ-ドは達成感に浸ったみんなの笑顔と、冷えた缶ビ-ル。
「みんなお疲れ様!本当にありがとう!」
『お疲れ様でした!乾杯!』
缶ビ-ルを上げる手が揃う。…うんまっ!忘れられなくなりそうな一口目の味を噛み締めていると、
「これ少ないんだけど、みんなに…」そう言って、太一に向かって差し出した夏美さんの手に、封筒が握られていた。──太一がみんなを見回す。
一人ゝの顔に望んでいた表情《もの》を認めて、満足げな、それでいてちょっと含羞《はにか》んだ笑顔を浮かべてから口を開いた。
「夏美さん。生意気な事言って悪いけど、そいつは貰えない。つうか、俺達の中にそれを受け取れる奴なんて居ないんだ」
言わせてくれたみんなを誇るよに、真っ直ぐ夏美さんを見詰める太一。夏美さんはその視線を受け取ると、恥ずかしそうに瞳を伏せた。
「…ごめんなさい。なんかあたし却《かえ》って…」
言いかけて夏美さんが口をつぐむ。太一もその続きはいらないと言うように笑った。
「夏美さん、ビ-ルもう一本いいっすか?」
「早すぎなんだよ、お前は!」
だんごに力也がツッコんで場が解《ほど》けた。みんなが思いゝの場所に腰を下ろす。まったりゆったり、時間が流れるのに任せて平和に夜が深《ふ》けていくものと安心し始めた頃、調理場に立とうとした夏美さんの躰が、急に支えを失ったみたいに崩れた。近くに居た力也が直ぐに走り寄って、倒れる寸前でその躰を抱き止める。
『夏美さん!!』
「大丈夫…。ちょっと立ち眩みがしただけ…」
その言葉を額面通り受け取るには、夏美さんの顔色は悪すぎた。──無理もないと思う。大切にしていた店が壊されて、ショックと不安を抱えたまま今度は眠らずに今まで経験した事の無いよな忙しさに追われて…。ひとり、誰に頼る訳にもいかない重圧に押し潰されそうになりながら。
「もう今日は帰った方がいいんじゃないの。私達が送って行くし」
瑠花の言葉に夏美さんが首を振る。「冷蔵庫の中とか、まだやらなきゃいけない事が残ってるから──」「あたしがやっときますから!」…今言ったのは…大丈夫、あたしだ。自覚もある。夏美さんの半分程しか生きていないあたしだけど、体力だけは負けてない筈だ。いける。全然大丈夫。
夏美さんもそれ以上空意地を張るような人じゃなかった。メモを残して大人しく店を後にする。万が一の事を考えて、夏美さんには瑠花、双葉、優の三人が付き添った。海斗は片付けと戸締まりの為店に残ると言って、表情を引き締めた。
よっしゃ!これが本当のもう一踏ん張り。渡されたメモを片手に調理場に向かう。店の方は早くも一樹達が手分けして海斗を手伝っていた。
「親方、何からやっちゃいます?」
──後ろからだんごの声。小学校の同級生は、知らない内になかゝいい男に育っていた。
「サンキュ」
なんとなく顔を見せるのが恥ずかしくて、あたしはメモに視線を落としたまま礼を返す。

