~R.1.8.12 海水浴二日目 夏美さん~
次の日も朝食を済ますと、皆、秒で水着に変身を遂げ民宿を後にする。
早くから打ち水されたアスファルトの小道。路傍に立つ紫陽花《あじさい》。誰かが始末し忘れたロケット花火の燃え滓《もえかす》。人の手を離れて間も無いのか、未だ水滴の渇いていないひしゃげたコ-ラの空き缶。海岸までの僅かな道のり、夏という舞台を作り上げるピ-スの一つゝが、見事に各々の役割を演じていた。其の何《ど》れもに照明を当てている太陽の力が一際大きい事は、言うまでも無いのだけれど。
又今日も、休む事無く繰り返される寄せては返す波の営み。そして又今日も、浜辺の彼方此方で休む事無く繰り返される出会いと別れ。ナンパという名のWiーFiの電波も勿論携帯さえもいらないお手軽なマッチングツ-ル。海辺に立ち並ぶパラソルの落とす影が右から左へと形を変えて行くのに従って、昨日と寸分の狂いも無い同じペ-スで時間が進んで行く。言うまでも無く、あたし達も一日中海に戯れ、流れて行く時の速度に追い付けないまま、あっさりと日が暮れていった…。
──夕刻。
昨日よりは幾らか増な手付きで店の片付けを手伝っていると、一時、調理場に籠り切りだった夏美さんが、段ボ-ル箱を抱えて店の真ん中で大きな声を張り上げた。
「みんな!今日は宿に戻る前にカレ-作ったから食べてってちょうだい。それからこっちは去年の残り物の花火。良かったらみんなで遊んでいって!」
随分前から店内に漂うカレ-の香りに食欲を刺激され、落ち着きを無くしていたあたし達。渡りに舟の申し出に、掃除する皆の動きは俄然勢いを増していく。雑巾を絞る手にも自然と力が入って、力を入れた拍子にお腹が鳴って、その音をあたしの声と勘違いした優がテ-ブルの向こうから「なあに-」と返事を返した。
片付けと掃除が終わると、皆が思いゝの場所に腰を降ろしてカレ-に舌鼓を打つ。蒟蒻入りのちょっと風変わりな夏美さんのカレ-。その味はこれ迄に食べたどんなカレ-よりあたしの口に合っていて、運命的な物を感じる程。男共が三回づつお代わりした所為《せい》でご飯が無くなり、仕舞いにはアメリカンドッグにカレ-を載っける斬新なコンビネ-ションをだんごが発明して、カレ-とアメリカンドッグも無くなった。
食休みもせずに花火を抱えて浜辺に出て行く男達。その後ろを、ラスト一本となったアメリカンドッグを頬張り付いていく海斗。あたし達は食後の片付けと洗い物だ。大した量でもないので、夏美さんには引っ込んでいて貰う。
片付けの済んだあたし達に、夏美さんがビ-ルを振る舞ってくれた。勿論、誰も断らない。遠慮もしない。
昼間の疲れがアルコ-ルに呼ばれたのか、皆暫くの間言葉も忘れて、女五人無言のままビ-ルを口に運んだ。缶がテ-ブルに触れる音で、五人が殆ど時を同じくして一本目を空にしたのが分かる。何も言わず奥に引っ込むと、人数分のビ-ルを出してきてくれる夏美さん。あたし達も何も言わず、座り直して頭を下げた。
「女の子はいいわね…」夏美さんのお世辞に酒の力を借りた優が軽口を叩く。「海斗だってなかなかですよ。いい男になると思いますよ、きっと」
「ふふっ…海斗ねえ…」
そう言って笑った夏美さんは少し寂しそうで、その眼には優が口をつぐんでしまう程の悲しみを湛《たた》えていた。
あたし達の揚げる煙草の煙を、時々浜から吹いてくる風が掻き回して、其処に生まれてしまった微妙な空気とか、夏美さんの表情を見て取ったそれゞの思惑を有耶無耶にしてくれる。と同時に又、その風に乗って運ばれて来た潮騒が、皆の沈黙に依って完成した静寂をより深い物にも感じさせる。
すると、その風に流してしまおうとでもするよな話し方で、夏美さんがポツリゝと言葉を零《こぼ》し始めた。
「溜まり場になっている海の家…、大野屋さんって言うんだけど…。海斗はそこの子供と小学生の時同級生だったの。暴走族のリ-ダ-っていうのはお兄ちゃんの方で、その弟とね。浩司君って言って海斗とは幼稚園からずっと一緒で、二人は本当に仲が良かった…。兄弟みたいに──」
夏美さんが一度目を瞑る。あたし達の中に口を開こうとする者はいない。
「五年生になった時だったわ…。二人はボ-トで沖に向かって。…軽い遊びの心算《つもり》だったんだろうけど、その時は丁度台風が来ていてね。二人が居ない事に気が付いたあたしと大野さんの奥さんが警察に通報した時にはもう遅かった…。海上保安庁の船が転覆したボ-トにしがみついている海斗を発見した時、波に拐《さら》われて、もうそこに浩司君の姿は無かったの…何処にも…。今も浩司君の遺体は発見されていないわ…。それからなの、海斗に対する嫌がらせが始まったのは。浩司君のお兄ちゃん──勇司君は面と向かって海斗に文句を言ったり、苛めたりする事も無かったけど、周りの子達は違った。同級生の子達もね。中学生の時なんて──″人殺し″って落書きされた教科書が家のゴミ箱に捨ててあったり、ビリビリに破られた体操着…、腕や足に痣を作って帰って来る毎日。…それでもね、海斗は何も言わないの。何にも…。悔しくて泣く位なら慰める言葉も掛けてあげられる。でもね、でも…海斗は──」
夏美さんの目に浮かんで零れそうになっている物から視線を逸らすように、あたし達は少しだけ開いた遣り戸の隙間から此方を窺う暗闇に目を向ける。あたしは──何時だったか暴走族の話しが出たその時、海斗の顔に差した翳の正体が分かった気がして、胸の中に流れ込んで来るやり切れない想いに息が詰まりそうだった。
「だから…、だからこの二日間…海斗のあんな明るい顔見たの久し振りだったから嬉しくて…。…なんてね…ちょっと酔ったかなぁ──」
夏美さんは立ち上がると調理場に入っていって、暫く出てこなかった。その間、掛ける言葉を持たないあたし達に代わって夏美さんに寄り添っていたのは、シンクを叩く流れ落ちる水音だけだった。
次の日も朝食を済ますと、皆、秒で水着に変身を遂げ民宿を後にする。
早くから打ち水されたアスファルトの小道。路傍に立つ紫陽花《あじさい》。誰かが始末し忘れたロケット花火の燃え滓《もえかす》。人の手を離れて間も無いのか、未だ水滴の渇いていないひしゃげたコ-ラの空き缶。海岸までの僅かな道のり、夏という舞台を作り上げるピ-スの一つゝが、見事に各々の役割を演じていた。其の何《ど》れもに照明を当てている太陽の力が一際大きい事は、言うまでも無いのだけれど。
又今日も、休む事無く繰り返される寄せては返す波の営み。そして又今日も、浜辺の彼方此方で休む事無く繰り返される出会いと別れ。ナンパという名のWiーFiの電波も勿論携帯さえもいらないお手軽なマッチングツ-ル。海辺に立ち並ぶパラソルの落とす影が右から左へと形を変えて行くのに従って、昨日と寸分の狂いも無い同じペ-スで時間が進んで行く。言うまでも無く、あたし達も一日中海に戯れ、流れて行く時の速度に追い付けないまま、あっさりと日が暮れていった…。
──夕刻。
昨日よりは幾らか増な手付きで店の片付けを手伝っていると、一時、調理場に籠り切りだった夏美さんが、段ボ-ル箱を抱えて店の真ん中で大きな声を張り上げた。
「みんな!今日は宿に戻る前にカレ-作ったから食べてってちょうだい。それからこっちは去年の残り物の花火。良かったらみんなで遊んでいって!」
随分前から店内に漂うカレ-の香りに食欲を刺激され、落ち着きを無くしていたあたし達。渡りに舟の申し出に、掃除する皆の動きは俄然勢いを増していく。雑巾を絞る手にも自然と力が入って、力を入れた拍子にお腹が鳴って、その音をあたしの声と勘違いした優がテ-ブルの向こうから「なあに-」と返事を返した。
片付けと掃除が終わると、皆が思いゝの場所に腰を降ろしてカレ-に舌鼓を打つ。蒟蒻入りのちょっと風変わりな夏美さんのカレ-。その味はこれ迄に食べたどんなカレ-よりあたしの口に合っていて、運命的な物を感じる程。男共が三回づつお代わりした所為《せい》でご飯が無くなり、仕舞いにはアメリカンドッグにカレ-を載っける斬新なコンビネ-ションをだんごが発明して、カレ-とアメリカンドッグも無くなった。
食休みもせずに花火を抱えて浜辺に出て行く男達。その後ろを、ラスト一本となったアメリカンドッグを頬張り付いていく海斗。あたし達は食後の片付けと洗い物だ。大した量でもないので、夏美さんには引っ込んでいて貰う。
片付けの済んだあたし達に、夏美さんがビ-ルを振る舞ってくれた。勿論、誰も断らない。遠慮もしない。
昼間の疲れがアルコ-ルに呼ばれたのか、皆暫くの間言葉も忘れて、女五人無言のままビ-ルを口に運んだ。缶がテ-ブルに触れる音で、五人が殆ど時を同じくして一本目を空にしたのが分かる。何も言わず奥に引っ込むと、人数分のビ-ルを出してきてくれる夏美さん。あたし達も何も言わず、座り直して頭を下げた。
「女の子はいいわね…」夏美さんのお世辞に酒の力を借りた優が軽口を叩く。「海斗だってなかなかですよ。いい男になると思いますよ、きっと」
「ふふっ…海斗ねえ…」
そう言って笑った夏美さんは少し寂しそうで、その眼には優が口をつぐんでしまう程の悲しみを湛《たた》えていた。
あたし達の揚げる煙草の煙を、時々浜から吹いてくる風が掻き回して、其処に生まれてしまった微妙な空気とか、夏美さんの表情を見て取ったそれゞの思惑を有耶無耶にしてくれる。と同時に又、その風に乗って運ばれて来た潮騒が、皆の沈黙に依って完成した静寂をより深い物にも感じさせる。
すると、その風に流してしまおうとでもするよな話し方で、夏美さんがポツリゝと言葉を零《こぼ》し始めた。
「溜まり場になっている海の家…、大野屋さんって言うんだけど…。海斗はそこの子供と小学生の時同級生だったの。暴走族のリ-ダ-っていうのはお兄ちゃんの方で、その弟とね。浩司君って言って海斗とは幼稚園からずっと一緒で、二人は本当に仲が良かった…。兄弟みたいに──」
夏美さんが一度目を瞑る。あたし達の中に口を開こうとする者はいない。
「五年生になった時だったわ…。二人はボ-トで沖に向かって。…軽い遊びの心算《つもり》だったんだろうけど、その時は丁度台風が来ていてね。二人が居ない事に気が付いたあたしと大野さんの奥さんが警察に通報した時にはもう遅かった…。海上保安庁の船が転覆したボ-トにしがみついている海斗を発見した時、波に拐《さら》われて、もうそこに浩司君の姿は無かったの…何処にも…。今も浩司君の遺体は発見されていないわ…。それからなの、海斗に対する嫌がらせが始まったのは。浩司君のお兄ちゃん──勇司君は面と向かって海斗に文句を言ったり、苛めたりする事も無かったけど、周りの子達は違った。同級生の子達もね。中学生の時なんて──″人殺し″って落書きされた教科書が家のゴミ箱に捨ててあったり、ビリビリに破られた体操着…、腕や足に痣を作って帰って来る毎日。…それでもね、海斗は何も言わないの。何にも…。悔しくて泣く位なら慰める言葉も掛けてあげられる。でもね、でも…海斗は──」
夏美さんの目に浮かんで零れそうになっている物から視線を逸らすように、あたし達は少しだけ開いた遣り戸の隙間から此方を窺う暗闇に目を向ける。あたしは──何時だったか暴走族の話しが出たその時、海斗の顔に差した翳の正体が分かった気がして、胸の中に流れ込んで来るやり切れない想いに息が詰まりそうだった。
「だから…、だからこの二日間…海斗のあんな明るい顔見たの久し振りだったから嬉しくて…。…なんてね…ちょっと酔ったかなぁ──」
夏美さんは立ち上がると調理場に入っていって、暫く出てこなかった。その間、掛ける言葉を持たないあたし達に代わって夏美さんに寄り添っていたのは、シンクを叩く流れ落ちる水音だけだった。

