惡ガキノ蕾 二幕

  ~R.1.8.10 どたばた旅行記その初日~
 二日後の土曜日、旅立ちの日。
…ちょっと大袈裟だったな。改めまして、八月十日土曜日の昼過ぎ。出発日。
 庭の隅っこ、陽の薫るような緑葉を輝かせて、葉櫻が足許に影を落としていた。眼下には自棄《やけ》っぱちな太陽の日射しが手加減無しに砂利を灼き炒める駐車場。
 二台の車が連なってその砂利の上にタイヤを進めるのを、あたしは二階のベランダから眺めていた。前を走って来た太一の車が停まって、助手席から瑠花が降りて来る。
「瑠花!」
 その声を追い越して、待ち兼ねていた双葉と優が足下から出て行くのが見えた。ハグし合う三人を見て、あたしも階下へと急ぐ。途中、一樹の部屋の前で声を掛けると、中から「今行く」と返事が返った。
「久し振り―」と駐車場に飛び出して行って、瑠花に抱き付く。
「はな!元気だった?」
 数ヶ月振りに会った瑠花が、陽に灼けた顔であたしに笑い掛ける。
 双葉にとって初めて出来た親友。その笑顔は十年以上経っても変わらず爽やかなままだ。──と、瑠花の後ろから聞き慣れた声。
「一樹は?」
「今来るって」
 太一の言葉を簡単に返して荷物を車に積もうとした処で、今度は力也から声が掛かった。
「はなみはこっちに乗った方がいいな。太一の車じゃ、五人乗ったらきついだろ」
「あ―ね」
 太一の乗ってきた車はGT―Rとか言うスポ―ツカ―。確かに四人乗ったらおなか一杯って感じはしなくもない。太一の他に双葉と優と瑠花。で、定員の四人。朝から晩まで忙しく働いている瑠花には、双葉達と遊ぶ時間があんまり取れないのも知っている。三人揃って遊べる機会なんて滅多に無いんだから、あたしにだって少しでも長い時間一緒に居させてあげたい気持ちはあるけど…。力也の車に女はあたし1人か。…さて──
「わりぃわりぃ」
 風呂上がりの頭を振り滴《しずく》を撒き散らしながら一樹が登場して、いざ出発。
 力也の車には助手席にだんごが座って、後部座席に一樹とあたしといった並び。買ってからまだ2ヶ月という力也の新車。四人乗ってもあたし達の後ろには一列分の空きがまだ有って、成る程、デカイ。何時だったか一樹が親方から借りて来た車と、そう変わらないんじゃないかなぁ。車はあんまり…、て言うか全然詳しくないけど、見た目そんな感じ。
「これって一月幾ら位払ってんだ?」
 信号で止まったタイミングで運転席の力也に一樹が声を掛ける。
「七万と少し」
「へ―」努めて軽い調子で答える一樹が車を欲しがっているのはあたしもよく知っている。当然双葉もね。偶《たま》に部屋の掃除をすると、プロレス雑誌に混ざって出て来る車関係の本は日にゝ増えてるし。──これは、あんまり人様に話すような事でもないから力也と太一だって知らないだろうけど、あたし達が今の家を買った時、パパの残してくれた保険金だけじゃ足りなくて、残額はロ―ンという形で残ったんだ。そして今、一樹はそのロ―ンを一人で払い続けている。半分払うと言う双葉の申し出にも頑として首を縦に振らず、珍しくあの時は怒ったように「これは俺の役目だから何も言うな」って、双葉にもあたしにも、その件に付いてそれ以上話す事を許さなかった。
 月々の払いは九万弱。バイクのロ―ンも払い終わったのかどうか知らないけど、車を買う余裕が無い事位はあたしにでも分かる。車が欲しい一樹の気持ちも…それなりには…ね。
「七万か―。大変っすね。でもいいな―、俺も早く車欲しいな―」
「免許が先だよな」
 だんごの大雑把なボケに力也がツッコんで、その話はそれ以上先に進む事無く、立ち消えた。
 ──前を走る太一の車に続いて高速の料金所を抜ける。軽~く渋滞気味の下り車線で、大してスピ―ドも出してない内から、ナビの横に置かれた力也の携帯が震えて、LINEの着信を訴えた。助手席のだんごが指先で撫でてやると、機嫌を良くした携帯が瑠花の声を届けてくれる。
「守谷のサ―ビスエリアで待ち合わせしようだって」
「了解…」りょうかいの″か″位で断ち切られる通話。
「終わるまで待てないもんかな」
 苦笑を浮かべる力也を見てだんごも表情を崩す。相変わらず、瑠花のせっかちは治っていないみたいだった。忙しげに携帯を弄る瑠花の様子を思い浮かべてあたしも笑った。
 そうこうする内、隣からは既に寝息が聞こえていて、一樹の寝顔を夏の陽射しと道路脇に立ち並ぶビル郡の影が交替で染めている。
 陽──陰、陽、陰陰陰、陽──陰、陽。テレビで見た中国のお面の早変わりみたいだ。何の気なしにその顔を眺めていたあたしの胸の中で、空の青さに陣取り合戦を挑む入道雲みたいにな悪戯心がむくゝと頭をもたげ始めた。ス―フッ…ス―フッ…ス―。時折揺れる車の中、調子を乱さず胸の起伏に合わせて聞こえる一樹の寝息。十年以上に渡るリサ―チの結果、こうなった時の一樹は、ちょっとやそっとの外的要因で目を覚ます事など無い。──よし。あたしは確固たる自信を持って一樹の顔に油性マジックのペン先を置いたのだった。ウキャキャ。
 流山《ながれやま》を過ぎた頃には、後にこれを見た双葉、優、瑠花、大絶賛となる立派な猫男爵が一匹車中に誕生していた。なんだったら、そのままミュ―ジカルに出演させてもおかしくない、自分にこれ程の才能があったのかと驚く程の仕上がり具合。写メも撮り終えて、守谷サ―ビスエリアに無事到着。
 先に着いていた太一の車の隣が運良く空いて、二台並んで駐車する。お盆の連休初日。今年は八連休する会社も有るという事で、守谷サービスエリアはほぼゝ満杯の大盛況。食べ物や飲み物を手にしたどの顔も何処か浮き足立っていて、その足取りも日常を離れる安堵と嬉しさからか、皆軽やかだった。大きな靴から小さな靴まで、まるでテ―マパ―クの中を進むみたいに弾んでいる。大型トラックが通り過ぎるのを待つあたし達に、最後に車から降りた一樹が合流した。
「あ―よく寝たわ―」
 あたし達の少し後ろで、気持ち良さそうに伸びをしている猫男爵。予《あらかじ》め根回しをしておいたお陰で、みんな吹き出しそうになるのをギリギリ持ちこたえている。ツボに填《は》まったのか、優と瑠花は一目散にWCに駆けて行った。
「取り敢えずなんか食うか一樹?…ぶぷっ」
「うん?ぁあ、そうだな…」
 未だ眠りの国から完全に戻って来ていない半覚醒状態の一樹は、ふらつきながら自動ドアを抜けると、フ―ドコ―トに向かって頼り無い足取りで歩いて行く。笑い出しそうになるのを堪える為、唇を噛みしめ後ろに続くあたし達一行。一樹が歩いて行く先では、異形の者を先頭にしたおかしな集団に気付いた先客達が、モーゼの十戒さながらに関わり合いになるのを怖れて道を空けてくれていた。何かしらの不幸を背負っていると勘違いして、憐れむよな眼を向ける大人達。物珍しさに眼をキラキラさせて、スマホを向ける若者と子供達。そんな周囲の様子に一向に頓着する素振りを見せずフードコートを闊歩する猫男爵。ラ―メン、ポップコ―ンにフランクフルト、かき氷、たこ焼き、こんな所に迄タピオカドリンク。雑多なメニュ―の中から猫男爵が足を止めて所望したのは″お好み焼き″だった。
「すんませ―ん。お好み焼き…」注文の途中で振り返った一樹の目に″誰か食べるか?″と言うメッセ―ジを読み取って、太一、力也、だんごが頷く。「はなみは?」と訊ねる一樹男爵に「いらにゃい」と返すあたし。
「後でくれって言ってもやんねえぞ。…んじゃ四つ」
「はい。お好み焼きをよ…ブフォッ…」
 惜しい!注文を復唱しようとしたお兄さんが、残念ながら堪え切れず途中で吹き出してしまう。頑張れ!頑張るんだお兄さん!
「マヨネ―ズとカツオブシはお付け…ブゲフォッ!ゴホッ…もう駄目だ…」
 店員という立場から来る責任感だけでは一樹の顔面に耐えられなかったと見えて、お兄さんはもう誰憚る事なく笑い始めた。猫にカツオブシ…。気持ちは分からないでもない。
『っぶわっはははははっ―』太一、力也、だんご、双葉。限界を超えた四人が同時にけたたましい笑い声を辺りに撒き散らす。フ―ドコ―トの一角で、騒動の中心に居る一樹だけが、台風の目に入ったように喧騒から取り残されていた。笑い声は未だ店の内側でも鳴り止まず、お好み焼きは出てこない。
 そんな中、店頭のショ―ケ―スに目を止めた一樹がガラスに顔を寄せる。お好み焼きだけじゃ足りないのか?…と思ったら違った。違いました。一樹が見ているのはショ―ケ―スの中身じゃなくて、ショ―ケ―スに映る自分の顔だった。光の加減ではっきり見えないのか、もどかしげに顔の角度を忙しく変えている。埒《らち》があかない様子で苛立った一樹は、辺りを見回すと入ってきた自動ドアに向かって走って行った。やれやれ。あんにゃろめ、やっと気が付きやがったか。
「トイレだね」笑い過ぎて目尻に涙を浮かべた双葉があたしの肩に手を置く。
「だね」と返して、あたしは一樹の代わりにお好み焼きの代金を払う為、財布を手に取った。せっかくだからあたしも一つ買おうっと。
 ──その後、優と瑠花も合流して皆でお菓子等を買い込んだりしてる間にも一樹が戻って来る事は無かった。
 買い物を終えて車に戻る。
「一樹の分は適当に買っておいたからな」
 走り出した車の中で、先に乗り込んでいた一樹に力也が前を向いたまま声を掛ける。まだ一樹の顔を見慣れないのか、今にも笑い出しかねない調子だ。
「ぉう。サンキュ」答えた猫男爵はところゞに擦った跡は在るものの、依然としてトイレに行く前のクオリティを保ったまま、一樹の顔面に在った。にゃんってたって油性ペンだ。風呂にでも入ってクレンジングフォ―ムでも使わない限りそう簡単に落ちるもんじゃない。…やばい。鏡の前で顔を擦ってる一樹の姿を想像したら、又笑い出しそうだ。これ以上バカにして怒り出したら面倒なので、おなかに力を入れ、切り換える心算《つもり》で口を開いた。
「はい。お好み焼き」
「おぅ。幾らだった?」あたしの心配を他所に、一樹の声に怒っているよな匂いはない。今のとこ鼻腔を刺激するのは、濃厚なおたふくソ―スの香りだけ。「500円。いいよ別に…」後ろめたさから金銭の譲渡を拒否するあたし。「ば―か。そういう訳にはいかねえよ。兄妹だって借りは借りだかんな」そう言ってお好み焼きを受け取ると、あたしの右手に五百円玉を握らせる一樹。「いいのに…」言って、右手を引こうとしたあたしの手首を一樹の左手が掴んだ。「へ?」何だか厭な予感がして、一樹の手を振り解《ほど》こうと腕を動かすものの、手首を掴んだ一樹の左手は一ミリもその位置から動こうとしない。
「借りは借り。きちんと返さねえと…な、はなみ」
「ヒッ…」
 瞬時に運転席の力也とだんごに視線を走らす。二人共距離にすれば50センチも離れていないのに、まるで異空間にでも居るみたいに前方に視線を据えたまま後ろを振り返ろうとしない。
 すがり付く思いで、何か助けになってくれそうな物や秘密の抜け穴を探して車内の彼方此方《あちこち》に落ち着き無く視線を巡らす。──が、当然そんな都合の良いものが都合良く置いてある訳も無く、無慈悲に車は進んで行く。──高速の降り口まで残り僅かの距離となった頃、車内の並びは運転席に力也、助手席にだんご、後部座席には猫男爵が二匹と様変わりしていた。
 未来へと移動を続ける車の中で、逆行するよに記憶のペ―ジを過去へゝと捲《めく》っていく。こんなにも兄妹なのはどれ位振りだろう?顔には揃いのメイク。歯には揃いの青のり。車が進む毎に増す揃いの気恥ずかしさ。
 後部座席でサイドウィンド―を降ろす音が重なった。