~R.1.8.8(木) 立秋~
強い日射しに「夏だ―っ!」と燥《はしゃ》いでいたのも一週間位の事だったろうか。七月が暦から剥がれ落ちて、立秋を迎えた今日では、「明日の予想最高気温は三十六度です」と、申し訳無さそうに笑顔で話すアナウンサ―にまでイラッとする。八月八日を立秋とする先走り感に呆れているのも、あたしだけでは無いんじゃなかろうか。
洗濯物を取り込もうとベランダに出た僅かな時間で、サクッとコップ一杯分の汗を掻く。店の中から空のビ―ル壜と焼酎のボトルを外に運び出して、更にコップ一杯。干涸びてしまわない内にアイスティで一服、カウンタ―に腰を下ろす。
座敷からはみゆの肌に消えない傷痕を残す機械の音が、一定のリズムを保って聞こえていた。外では、その微かな機械音ですら気に入らないのか、まるで自分達の鳴き声以外の音はこの世から消えてしまえと言った風に、蟬達ががなり立てている。
そりゃあ、あんな風に必死になって命を削るみたいに鳴いていたら早死にするに決まってるよなあ…などと暫し詩的感傷に浸った所為かアイスティの苦みを普段より強く感じる。繊細なあたしって可愛い。
14時55分。店の掃除を始めるにはまだ少し余裕がある。エアコンの効いてる店の中で、重ねて扇風機が右に左に休み無く首を振っていた。──「あ゙~~~~~」
説明の付けようのない、DNAに刻まれているとしか思えない衝動に突き動かされて、扇風機の前に座る。首振りを固定に戻し、口を開けると殆ど催眠状態の中で声を出し続ける。「あ゙~~~~~」気持ちいい…。よくぞ平和な時代に生まれけり、そう心から思える至福の一時。真夏の扇風機の前の「あ゙~~~~~」
──「何やってんの~?」
「あ゙?」
間抜け面で振り返ると、何時の間にやら知らない人でも見るよな顔してみゆが立っていた。
「えっ?いや…別に…何も。あれ、なんだか喉の調子が…ゴホッゴホッ…ゴホン…」
咳払いを目眩ましにして、カウンタ―の内側に回るとジャスミン茶にミントの葉を一枚載せる。あたしの手からグラスを受け取って、みゆが椅子に腰を落ち着けた。その目には理解不能な行動をしていたあたしを訝《いぶか》しむ色がありゝと浮かんでいる。イラン人のお父さんを持つ彼女は、扇風機に向かってする「あ゙~~~~~」というアレを、名前は知らないけど"アレ"をやった事が無いんだろうか。
「明日から海行くんだって~?いいな~」
「あ、…あ―ね。そう。何?みゆも行くの?」
「行きたいけど~パス。ほら、今ね~イランの方で色々あってさ~お盆は家族全員で~里帰りだから~」
「あ―」
何が「あ―」だか良く分からないけど、アメリカとイランがどうしたこうしたって言うニュ―スなら確かにテレビで見聞きはしていた。詳しい内容は、これも良く分からないのだけど…。戦争を経験していないあたしにとって、自分の国ならまだしも、他の国同士のいざこざに対する関心なんて、恥ずかしいけどそんなもんだった。みゆの口振りからは、深刻さはそれ程伝わって来ない。たとえ状況が逼迫《ひっぱく》していたとしても、国内の事情にも大して詳しくないあたしに、国対国の仲違いに関わるコメントなんて出来る訳も無く、かと言って、みゆを気遣う気の利いた台詞の一つも出て来る訳じゃないのだけど…。然りとて、沈黙を嫌ってお茶を濁すよな軽はずみな言葉だけは口にしたくなかったから、用を成さない口を塞ぐ為あたしは煙草を咥えたのだった。
「どうせ~水着になるのはまだ恥ずかしいし~。ま、いっか~」
自分の不甲斐なさに気落ちしているあたしに気付かない振りをして、背を向けたみゆがシャツを脱いだ。
「どう~?はなみ~?」
──息を呑むって表現じゃちょっと違う…。
みゆの華奢な背中。其処に刻まれていた、赤、青、黄色、紫、緑と色を未だ持たない花達を眼の当たりにして、あたしは呼吸という生命活動自体を暫し忘れてしまったのだから。
…綺麗…。
それは双葉の書棚に収まっている画集に並ぶどんな絵画よりも力を持ってあたしに迫った。無数の花を束ねる様に尾を絡める漆黒の蛇。
あたしはその両の眼に射竦《いすく》められ動く事を禁じられた蛙になって、瞬きもせずにみゆの背中を見詰めていた。時間という観念はあたしの中にもう残っていなかったから。
──「バンッ!」
うしろで双葉が冷蔵庫の扉を閉める音が肩を叩いた。
その音を切っ掛けに、又時計の針は動き始め、躰の機能があたしの中に戻り始める。
「綺麗だね…」
振り返ったみゆ。缶ビールを手にした双葉。二人共あたしの言葉と言うよりは、あたしの顔付きに満足して頷き合う──凄かった。パパとじいちゃんの刺青も子供の頃から見てるけど、こんな気持ちになった事なんて無い。今あたしが見た物あれは…。胸の中にあって飛び出しそうな想い。口に出して二人に伝えたいのだけど、上手く表現出来る言葉をあたしは持ち合わせていない。と言うより、彫り物が持つ力と熱に当てられて、思考が纏まらなかった。只、それを生み出した双葉に感動し、それを背中に刻んでいるみゆを羨ましく思っている自分に気づいただけ。躰の中で泡立つ得体の知れない何か、それを持て余すあたし。
「ありがとう~。ごちそうさま~」
身支度を整えたみゆと双葉が連れだって店を出て行く。残ったあたしは思い出して、咥えていた煙草に火を点けた。
強い日射しに「夏だ―っ!」と燥《はしゃ》いでいたのも一週間位の事だったろうか。七月が暦から剥がれ落ちて、立秋を迎えた今日では、「明日の予想最高気温は三十六度です」と、申し訳無さそうに笑顔で話すアナウンサ―にまでイラッとする。八月八日を立秋とする先走り感に呆れているのも、あたしだけでは無いんじゃなかろうか。
洗濯物を取り込もうとベランダに出た僅かな時間で、サクッとコップ一杯分の汗を掻く。店の中から空のビ―ル壜と焼酎のボトルを外に運び出して、更にコップ一杯。干涸びてしまわない内にアイスティで一服、カウンタ―に腰を下ろす。
座敷からはみゆの肌に消えない傷痕を残す機械の音が、一定のリズムを保って聞こえていた。外では、その微かな機械音ですら気に入らないのか、まるで自分達の鳴き声以外の音はこの世から消えてしまえと言った風に、蟬達ががなり立てている。
そりゃあ、あんな風に必死になって命を削るみたいに鳴いていたら早死にするに決まってるよなあ…などと暫し詩的感傷に浸った所為かアイスティの苦みを普段より強く感じる。繊細なあたしって可愛い。
14時55分。店の掃除を始めるにはまだ少し余裕がある。エアコンの効いてる店の中で、重ねて扇風機が右に左に休み無く首を振っていた。──「あ゙~~~~~」
説明の付けようのない、DNAに刻まれているとしか思えない衝動に突き動かされて、扇風機の前に座る。首振りを固定に戻し、口を開けると殆ど催眠状態の中で声を出し続ける。「あ゙~~~~~」気持ちいい…。よくぞ平和な時代に生まれけり、そう心から思える至福の一時。真夏の扇風機の前の「あ゙~~~~~」
──「何やってんの~?」
「あ゙?」
間抜け面で振り返ると、何時の間にやら知らない人でも見るよな顔してみゆが立っていた。
「えっ?いや…別に…何も。あれ、なんだか喉の調子が…ゴホッゴホッ…ゴホン…」
咳払いを目眩ましにして、カウンタ―の内側に回るとジャスミン茶にミントの葉を一枚載せる。あたしの手からグラスを受け取って、みゆが椅子に腰を落ち着けた。その目には理解不能な行動をしていたあたしを訝《いぶか》しむ色がありゝと浮かんでいる。イラン人のお父さんを持つ彼女は、扇風機に向かってする「あ゙~~~~~」というアレを、名前は知らないけど"アレ"をやった事が無いんだろうか。
「明日から海行くんだって~?いいな~」
「あ、…あ―ね。そう。何?みゆも行くの?」
「行きたいけど~パス。ほら、今ね~イランの方で色々あってさ~お盆は家族全員で~里帰りだから~」
「あ―」
何が「あ―」だか良く分からないけど、アメリカとイランがどうしたこうしたって言うニュ―スなら確かにテレビで見聞きはしていた。詳しい内容は、これも良く分からないのだけど…。戦争を経験していないあたしにとって、自分の国ならまだしも、他の国同士のいざこざに対する関心なんて、恥ずかしいけどそんなもんだった。みゆの口振りからは、深刻さはそれ程伝わって来ない。たとえ状況が逼迫《ひっぱく》していたとしても、国内の事情にも大して詳しくないあたしに、国対国の仲違いに関わるコメントなんて出来る訳も無く、かと言って、みゆを気遣う気の利いた台詞の一つも出て来る訳じゃないのだけど…。然りとて、沈黙を嫌ってお茶を濁すよな軽はずみな言葉だけは口にしたくなかったから、用を成さない口を塞ぐ為あたしは煙草を咥えたのだった。
「どうせ~水着になるのはまだ恥ずかしいし~。ま、いっか~」
自分の不甲斐なさに気落ちしているあたしに気付かない振りをして、背を向けたみゆがシャツを脱いだ。
「どう~?はなみ~?」
──息を呑むって表現じゃちょっと違う…。
みゆの華奢な背中。其処に刻まれていた、赤、青、黄色、紫、緑と色を未だ持たない花達を眼の当たりにして、あたしは呼吸という生命活動自体を暫し忘れてしまったのだから。
…綺麗…。
それは双葉の書棚に収まっている画集に並ぶどんな絵画よりも力を持ってあたしに迫った。無数の花を束ねる様に尾を絡める漆黒の蛇。
あたしはその両の眼に射竦《いすく》められ動く事を禁じられた蛙になって、瞬きもせずにみゆの背中を見詰めていた。時間という観念はあたしの中にもう残っていなかったから。
──「バンッ!」
うしろで双葉が冷蔵庫の扉を閉める音が肩を叩いた。
その音を切っ掛けに、又時計の針は動き始め、躰の機能があたしの中に戻り始める。
「綺麗だね…」
振り返ったみゆ。缶ビールを手にした双葉。二人共あたしの言葉と言うよりは、あたしの顔付きに満足して頷き合う──凄かった。パパとじいちゃんの刺青も子供の頃から見てるけど、こんな気持ちになった事なんて無い。今あたしが見た物あれは…。胸の中にあって飛び出しそうな想い。口に出して二人に伝えたいのだけど、上手く表現出来る言葉をあたしは持ち合わせていない。と言うより、彫り物が持つ力と熱に当てられて、思考が纏まらなかった。只、それを生み出した双葉に感動し、それを背中に刻んでいるみゆを羨ましく思っている自分に気づいただけ。躰の中で泡立つ得体の知れない何か、それを持て余すあたし。
「ありがとう~。ごちそうさま~」
身支度を整えたみゆと双葉が連れだって店を出て行く。残ったあたしは思い出して、咥えていた煙草に火を点けた。

