惡ガキノ蕾 二幕

   ~七夕前夜 太一のお誘い~
 ──ばたばたばたと、忙しなく時間が過ぎて、気付けばもう十時半。
 植松さん御夫婦の後ろ姿を見送った顔を、天の川を探して夜空に向ける。一体、どれが織姫と彦星で、何処が天の川なんだろ。星座の事なんてさっぱり分からないくせに、それっぽい感じの星を暫く探してみる。織姫も彦星も、明日の当日時間ギリギリまで姿を現さない心算《つもり》なのだろうか。つうか、そもゝ天の川自体が見付からない。もしかしたら天の川も明日になったらいきなり流れ始めるのかな。とか考えつつ、猶《なお》も探す。…探す。…探してる風を装う。…飽きる。まあ、他人のデ―トを覗くなんて、あまりいい趣味とは言えないよね。期せずして湧き上がったもやゝを振り払うよに頭の中を一新。
 ──そう言えば植松さん達も短冊結んで帰ったけど、何て書いて行ったんだろ?店に戻ろうとして引き戸を開けると、座敷の四人連れから「お愛想―」と、声が掛かった。四人の内、男一人と女の人はカップルだったらしく、他の男二人は終始カウンタ―の双葉と優をつまみに酒を口に運んでいたのには気付いていたのだけど…。
 お会計も済ませた帰り際、その二人が声を掛けようかどうしようか迷っているのが犇々《ひしひし》と伝わって来て、息苦しさを感じるあたし。カップルの男女が暖簾を潜って出て行った後も、踏ん切りのつかない二人はレジの前からなかゝ動こうとしなかった。と言う訳で、出掛かった「有難うございました」を口の中に引き留めたあたしも動けない。──果たして苦渋の決断の末、二人が漸《ようや》く踏み出したのは、双葉達に向けてではなく、暗がりに虫の音が淋しげに鳴る、店の外に向かっての一歩だった。残念。
 嘸《さぞ》や無念であったのだろう、鉄球でも引き摺るような重たい足取りで二人が店から去って行く。途中空を仰いだのは七夕に想いを馳せてか、それとも込み上げる熱い物を堪える為か。若人二人に幸あれ。
 今日は他にも二組のお客さんが有ったんだけど、どちらもきれいに呑まれて帰った後で、この時間は、お客さんとして接するのにはかなりの労力を必要とする面々がカウンタ―に残っていた。
 カウンタ―を彩る見慣れた景色。そんな中、太一が今の今まで忘れていたという感じで口を開く。
「そう言えば一樹。盆休みなんか予定あるか?」
「…ぁあ?」珍しくこの時間まで意識を保っていた一樹が、眠そうな目をして太一に顔を振る。…遅い。その動きときたら、まるで今際《いまわ》のきわの重病人のようだ。
「…なん…で…?」怪しくなって来た一樹の口振りに、少し早口になって太一が続けた。
「いや、茨城の大洗海岸で民宿やってるじいちゃんとばあちゃんが、車の免許取ったんなら、来れば泊めてやるって言ってるからさ。良かったらみんなで海水浴なんてどうかと思ってな」
「…わ…かっ……た…行く……」siriよりも遥かにたどゝしい日本語の一樹。百パ―セント何も考えて無いに決まっているけど、太一はそんな事にはお構い無しなのだろう。気にする素振りは無い。
「それって何人位行けるんすか?」横からだんごが口を挟む。
「別に何人とか決まってねえよ。十人位は平気で泊まれる筈だしな。力也はもう行くと思って人数に入れてあるし、あれだったらお前も行くか?」
「はいはい!喜んでお供させて頂きます」
「あたしも海行く!」高らかに優が宣言する。酔っていようが、一樹が一度行くと口にしたら必ず守る事を知っている優の言葉には、他に有無を言わせない力強さがある。意訳するなら…
"誰がなんと言おうとあたしも行く。文句は言わせない"となる。
「双葉も行くでしょ。ね、ね、ネッ!」
「あ…あ、うん」あの双葉が押し込まれて歯切れが悪い。
「え―と…。今んとこ、俺と一樹と力也。だんごに優と双葉とはなみで七人。あ、瑠花も行くから八人だな。んじゃあ、日にちが決まったらラインするわ」
 …おいおい。聞き間違いじゃなきゃ、当たり前のようにあたしの名前が入ってた気がするけど、何時あたしが行きたいって言ったんだ?アホ太一め。酔って幻聴でも聞こえているんだろうか。十六歳のうら若き乙女に、お前らなんぞに付き合ってる暇なんて無いし、看板娘のあたしにはお店だってあるんだ。そこら辺の事情をトンチキ野郎共に教えてやる心算《つもり》で口を開きかけた処を、太一に先手を取られた。
「あ、きむ爺。はなみ居なくても店の方大丈夫か?」
 そうそう。やっと気が付いたかお惚《とぼ》けアホ太一。まあ、生まれつき頭が悪いのはしょうがない。可哀想だから許してやろう。次からは気を付けたまえ。ではきむ爺、あたしの代わりに言ってやって頂戴。
「なあに、大丈夫。行っておいで」
 …って、おい、ジジイ。おい…今なんて言った?
「よし。決まった」
 太一のこの言葉が滅びの呪文となって、あたしの夏休みの計画は儚くも崩れ去った。と同時に、期待していた一夏の恋、甘酸っぱい夏の思い出、そんな十代の女の子なら誰もが抱く淡い夢は、上手い事言えば海の藻屑となって消えたのだった。おいおい。
 …おい!
 ──閉店後。
 片付けを片付けて、火元の確認が終わると、缶ビ―ルを一本連れてカウンタ―に座る。うう…、こうなりゃ飲んでやる。酒よ、お前だけだ、あたしの気持ちを分かってくれるのは。「くぅ~っ」美味い。たまりません、この一口目。ビ―ルは喉越しとは言うけれど、あたしにとっての美味しいビ―ルは、躰と気持ちに染みて拡がる。…そんな気がする──時がある。お酒の味を語れる程年を重ねちゃいないけど、何にせよ、飲むべきその時に飲めば、お酒は美味しいものなのだ。
 それ程時を置かず一本目を空にして、缶と比例して軽くなった気持ちと体で燐寸《マッチ》を擦る。一口目の煙りが扇風機の風に運ばれ、この世から姿を消して行った。消滅に向かって絶え間無く立ち上る煙草の煙り。ある高さまで昇ると、姿の見えない風に一瞬形を与え霧散し消えて行く。
 目の端で同じ風が、薄桃色の短冊を揺らす。灰皿に煙草を押し付けて、短冊を掴んだ。これは…植松さん御夫婦が書いた…。
 "ばあさんより先に死ねますように"
 "おじいさんと一緒に死ねますように"
 なんでだろう。これっぽっちも悲しくないのに目の奥が熱を持つのは。
 なんなのこれ…二人共死ぬ時のお願いなんて。短冊の字がぼやけて、ちょっとだけ笑えた。
 ──次は…
 "美空ひばりに会いたい きむ爺"こっちも、もう死んでるし。…次が優。
 "一樹先輩と🖤🖤🖤"書けない事って何?こっちが照れるわ。
 ところで双葉のは…?双葉の…双葉の…と、あった。
 "パパがもう少し夢に出てきてくれますように"……。
 カウンタ―の内側に回って、冷蔵庫の中から缶ビ―ルをもう一本連れ出す。
 三百五十ミリリットルのビ―ルが缶の中から消える迄の間ずっと、頭の中にはパパが居た。思い返して見れば、パパが死んでから兄妹で旅行に行くのも初めての事だ。…うん、悪くないかも…悪くない。──という訳で…
 "いい旅になりますように はなみ"
 手を離すと、撓《しな》った笹の先で短冊が楽し気に跳ねてみせた。