惡ガキノ蕾 二幕

   ~七月上旬 とある一日~
「私、強くなれたよ」
 東京に帰って来た翌日から始まった大会で、凜はその言葉に嘘が無かった事を証明して見せた。
 凜の朝稽古はあの日の翌日も翌々日も行われて、双葉が復活した翌々日に至っては昼近く迄続く激しい物だったらしい。"らしい"と言うのは、あたしは道場には行かず、専《もっぱ》ら八重さんと料理をしたり山菜採りをして過ごしていたからだ。今となっては双葉が何を思って別荘行きを決めたのか、そもゝ征十郎の方から誘われたと言うのも怪しい処だけど、殊更《ことさら》真相を確かめようという気にもならなかった。
 結果だけ言っちゃえば、"第38回 魁皇旗争奪女子剣道関東大会"、凜の学校は団体戦で優勝。個人戦でも一位と三位を同学校の選手で占め、全国大会への出場を決めた。三位に入賞したのが三年生の部長、優勝したのは二年生の凜だった。
 "優勝は二年生!!早咲きの逸材!!"
 専門誌から切り抜いた記事が店の中、暖簾を潜ると直ぐに目につく場所に貼り出してある。大会が終わった五月から此方《こっち》、あたしの口から、「実はあたしの親友なんですけど…」で始まる自慢話を耳にしていないお客さんは一人として居ない。
 少し大会の話をしておくと、当日会場に居たあたしは、記者達に依る優勝インタビュ―も間近で聞く羽目になった。"聞く羽目になった"と言うのも、そのインタビュ―を聞いた後で、開いた口が家に帰るまで塞がらなかったからなのだ。
 ──「今の喜びを誰に伝えたいですか?」と聞かれた凜の答えが、
「お母さんと大好きな先輩に…」
 すかさず「おおぅ―」と、ギャラリ―の間からどよめきが起きる。これを切っ掛けに、あたしの中ではむくゝと嫌な予感が膨らみ始める。
「大好きな先輩と言うと、彼氏ですか?」
 此れに、
「彼氏ってわけじゃ…」と、頬を赤らめる凜。おいおい。…おい。
「その方も剣道をされているんですか?他の高校?」
「いえ。彫り師です」ちなみに此処であたしの口はあんぐり状態。
「ほりし?ほりしって、あの彫り師ですか?」
「はい。刺青の」言って、恥ずかしそうに顔を伏せる凜。この反応が誤解を生むのは当然の結果だろう。
 あれだけ騒いでいた会場を、深夜の霊園並みの静けさと氷点下の寒気が急襲した。時代が変わったとは言っても、集まっている記者達の大半は昭和生まれ。彫り師にアウトサイダ―的なイメ―ジを抱いているのが当たり前で、しかもそれが、品行方正の襷を掛けたイメ―ジガ―ルみたいな女子高生の彼氏と来た日にゃあ、至極、真っ当な反応である。
 あたしは…、と言えば、観戦中に湧き上がった感動をきれいさっぱり吹き飛ばされて、インタビュ―の途中からは、さっさと帰り支度を始めていた。胸の中で一言だけ突っ込んでね。「あたしわい!?」
 ──大会から二週間程が経ったある日、一度だけ例の件に付いて凜に訊ねた事があった。凜が言うには、しぶとく残っていたネットの書き込みも、大会を期にピタリと無くなったらしい。凜がヤバい人と付き合っているなんて、有り難く無い噂が広まるおまけは付いたもののね。人の態度の移り変わり。その激しさを目の当たりにした凜は、淋しそうではあったけど、それでも笑っていた。ま、あたし達の暮らすこの世界で全て八方丸く収まり、めでたしめでたしハッピ―エンドなんて、最近じゃドラマでも滅多に見られやしないしね。
 なんだかんだあったけど、凜の進む道の先に影を落とす雲が、少しでも晴れたのなら良しとしよう。ア―メンハレルヤ、何が在ろうと今日も地球は回り世界は変化し続けて行くのだ。
 壁に貼ってある切り抜きに目を遣り、暖簾を手に引き戸を開ける。
 ──七月の東京の空。
 旅路を急ぐ梅雨雲の無造作に落とした雨粒のひとつが、挨拶代わりにあたしの肩を叩いて行った。この雨の後にも何処かで虹が架かればいいな。
 …などと、どうでもいい事を考えつつ、今日も看板に灯りを入れる黄昏時《たそがれどき》。