惡ガキノ蕾 二幕

      ~R1.5.1 令和の朝~
 ──ほんと~に残念だけど、何時の間にやら気を失う様に眠ってしまったあたし。起きた時には令和と名付けられた時代の幕開きから七時間が経っていた。
 恰好こそ昨夜《ゆうべ》の儘《まま》だったけど、目覚めたのはこれ以上は無いと言い切れる寝心地の御布団の上。掛け布団なんか家で使っている物を果たして同じ掛け布団と言う名詞で呼んでいいのか考えさせられてしまう程の品。ぬくゝ二度寝しようと瞼を閉じかける…と、何か忘れているようなあの、しっくり来ない感じが塞がりそうな瞼を懸命に止めた。ん…そうだ…、そう言えば、双葉と凜はどうした?もうあと1・2ミリでくっつきそうな瞼をムリクリ引き上げて隣を見ると、きちんと畳まれた布団が一組。んなんっ!?デジャヴか?昨日の朝もこんな感じだった気がする。頭の中と揃ってぼやけた視界を反対側に振ると、そこには更にもう一組、此方もきれいに畳まれた布団が整然と置かれていた。「!?」…あたしを挟んで布団が二組。って事は、双葉と凜が寝ていたのは間違いないだろうけど…。さて何処に行ったんだ二人共?あたしを置いて。布団に残された匂いを辿って二人を追跡しようかとも考えたけれど、同時に自分にそんな能力が無かった事も思い出されて諦める。さてゝ…。
 耳を澄ますと、微かに聞こえる控え目な雨音が、しんと静まり返った屋敷を包み込んでいた。令和時代の末端となった朝。何時までも聴いていたくなる淑やかな雨垂れの調べに引き込まれて、暫し魂は躰を離れ宙を揺蕩《たゆた》う。ふんわりとした心地好さに、そのまま眠りの国へと連れ戻されそうになるのをどうにかこうにか踏み止《とど》まって、あたしは布団を跳ね上げた。「とおぅっ!」
 腹筋に力を入れて起き上がると、改めて周囲の音に耳をそばだてる。無数の雨粒が弾けて作り出す旋律に、パ―カッションの如く甲高い掛け声と竹刀の打つかる音が混じっていた。…おっ!
 廊下に出て、素足で歩くのが申し訳なくなる程に磨き込まれた床張りの上を、音のする方ゝへと進んで行く。開け放たれた裏口から伸びる石畳の手前、手水鉢《ちょうずばち》を覗き込む様にして八重さんが立っていた。
「お目覚めになりましたか」
「あ…お早うございます…」
 隣に並んで、八重さんと同じ形で手水鉢の中に視線を落とす。
 金魚が二匹、頭上の藤棚を映し返す水の中で仲良く…ん?いや、仲が良いのかは良く分からないけど、互いをつつき合い躰を踊らせていた。傍目《はため》には喧嘩している様にも見える、赤と黒の艶やかな鱗《うろくず》。
「双葉と凜が居なくて…」
 あたしの言葉に答えて八重さんが視線を移した先、石畳の突き当たりには、練武場と看板の掲げられた離れが在った。中からは足を運ぶ音と、凜の掛け声が絶えず聞こえている。勿論竹刀を激しく打ち付ける音も。
 ひとつ頷いた八重さんが先に立って歩き出す。
 引き戸を開けた三和土《たたき》の向こう、框《かまち》を上がった畳の上では、剣士が二人、丁々発止と斬り結んでいた。打つかり合う大小二つの藍色の塊。大きい方は殆ど中央から動かず、小さい方がその周りを跳び回り、右、左、あらゆる方向から竹刀を繰り出している。
 神棚の下、何処の国の言葉で書かれているのかすら分からない掠れた墨字が踊る掛け軸、それを背中に同じ藍色の道着に身を包んだ三人が座っていた。真ん中には征十郎。両脇に居たのは双葉と辰雄だった。
「お早うございます」邪魔にならない声音で挨拶を済ませて、双葉の隣に八重さんと並んで座る。
「あれ凛と和男?」
 これには双葉が顎を引いて答えてくれた。
「和男を元立ちにして、始めてから二十分位かな。もうそろ凜も限界だと思うよ」
 双葉の言葉は間も無く現実となって、「メェ―ンッ!」と和男に向かって行った凜が掛け声ごと弾き飛ばされその場に蹲《しゃが》み込んだ。そぼ降る雨も一役買って、幾らか肌寒い感じのする道場の中で、凜の面からは汗が滴り落ち道着に包まれた背中からは、盛大に蒸気を立ち上《のぼ》らせている。躰全部を使って呼吸を整えようとしている凜を見て、あたしは掛けようとした言葉を口の中で消した。
「辰雄"先生"。一本お願いします」
 突然の双葉の改まった口調が、道場内の空気の密度を変える。
「おう」
 短く答えた辰雄がニヤリと表情を崩した。其の顔は直ぐに面で隠されてしまったけど、笑うと案外可愛く見えて…。錯覚…そう、錯覚だとは分かっていても少なからず驚いた。同じく面を着けている双葉もなんだか楽しそうに見えるのは錯覚では無いと思えるのだけど、さてどうだろう。
 畳を降りた和男と凜が、双葉達と入れ替わってあたしの横に座った。
「上手くなったな」
 汗は掻いているものの、息を乱した様子も見せずに話す和男。
「嘘…」
 凜にしては珍しく、悔しさを隠そうとしない物言い。未だ呼吸が整わないのか、その一言でさえ発するのが大変そうだ。
「嘘じゃない。本当に上手くなった」
「でも…ふぅ…一本も…取れなかっ…」
「ははっ…。元立ちの俺から一本取る積もりだったのか。そいつは驚いたな」
 凛と和男の少し後ろで征十郎が薄く笑っている。
「まあ俺が凜に一本取られる事は後二、三年は無いと思うけど、今の感じなら五年は無いかもな」
「どういう事ですか」凜の眼に力が入る。
 あたしは、凜が剣道で子供扱いされるのを初めて目にして、軽いショック状態になりながら、優しく諭すような眼差しを凜に向けている和男…先生の横顔を見ていた。
 征十郎、辰雄、和男。三人の前では双葉も凜も、あたしの知らない顔を見せる。この大人達に興味が湧いた…。多分、そういう事なんだろう。
「剣道は確かに上手くなったよ。なったけど、それと一緒に弱くもなったってとこかな」
 和男の…和男先生の言葉に自分でも思い当たる節が在ったのか、唇を噛んで黙り込む凜。何でもいいから取り敢えず話し始めなきゃと思って焦るあたしの口を、後ろから征十郎の言葉が塞いだ。「…まあ二人共、少し見させて貰おうじゃないか」
 ──道場の中央。
 辰雄と双葉が二メ―トル程距離を取って向かい合う。
「双葉は最近、竹刀を握っていたか?」
 斜め後ろから投げられた征十郎の言葉に、あたしは強く首を横に降る。「二年以上は竹刀を持っていないと思う」中学校の二年生からだから、下手すりゃ三年、双葉は剣道から離れている。"た…ま―に"木刀を振る事は有ってもね。
「コッメ―ンッ!ド―ッ!」
 初めて聞く双葉の掛け声。その響きが消えるのを待たず、瞬時に辰雄と双葉の躰の位置が入れ替わる。
「おぉ。今の辰さんヤバかったかもな」
「…凄い…」
 和男と凜の呟きに征十郎が在るか無きかの動きで頷く。
「恐ろしいまでの天賦の才よな…」
 素人のあたしには、今、目の前で繰り広げられている物がどんな試合で、どちらが攻めてどっちが守っているのかさえ怪しい処だけど、双葉…我が姉に対して皆が驚嘆している事だけはしっかりと伝わって来た。
 ぱっちりお目めを皿の様に、なんなら鍋でもフライパンにでもする積りでジッと見詰めていると、凛と和男の時とは違って、竹刀の打つかり合う回数が極端に少ない事が分かった。辰雄が踏み込んで竹刀が届く時には、双葉の躰が、その場からまるで瞬間移動でもしたみたいに居なくなってしまう。
「あの足捌《さば》きを続けられたら、大学生のレベルでも双葉を捕まえられる奴はそう居ないかもな」
 和男の言葉に凜はもう返事を返さない。身体の中に備わっている感覚の全てを瞳に集めるような真剣な眼差しで、双葉の動きを捉えようとしているんだと思う。只、征十郎だけがその言葉に答えるかの様に独り言《ごち》る。
「"剣道"の試合ならばな」
 咄嗟には意味が分からなかったけど、聞き返すよりも今この時は、道場の隅で躰を寄せる二人から目が離せなかった。すると、あっ、と思う間も無く、辰雄が双葉の道着を掴むと、足を払って双葉を畳の上に転がした。一回転、二回転して勢いのまま立ち上がり、再び間合いを取る双葉。
「ずる―っ!!」
 姉にならって勢いをつけて口に出したあたしは、抗議する意味を含めて精一杯きつい視線を征十郎に打つける。苦笑いで受け止めた征十郎の選び出した言葉は、あたしに向けてと言うより、其の場に居る皆に見せる為、畳の上に置き留める重たさを持った物だった。
「辰雄は儂《わし》の許《もと》で古流も学んでおるからな…。しかし、其れを置いても基より斬り結ぶに狡いも卑怯も無い。負ければ死ぬだけ。死んだ後《のち》には狡いと口にする事さえ叶わぬだろうて」
「そんなの…だって…」
 尚も言葉を積もうとするあたしの眼に、喰い入るように双葉と辰雄の立ち合いを見詰める凜の横顔が映り込む。張り詰めたその面持ちに、あたしの口もそれ以上余計な動きをするのを止めた。
「それに…。何より双葉自身に不満がある様には見えんがな」
 足首を一度くるりと回した双葉が、その感触を確かめる様に軽く二度跳ねて見せる。次に竹刀を和男が言う処の正眼に構えると、「てぇ―っ!」と、楽しそうにも聞こえる掛け声を道場に響かせた。「どぉ―っ!」と受けた辰雄のそれは、掛け声と言うよりは最早雄叫びに近く、壁と床を通じて道場全体が細かく震えるような感覚を連れて来る物だった。二人の間合いが徐々に縮まって行く。もう少しで互いの竹刀が触れる…その間合いでどちらも前に出るのを止めた。小刻みに躰を前後左右に揺らす双葉。辰雄の竹刀の先端がその動きに合わせて同じく揺れる。離れていても二人の居る空間でじりゝと気が張り詰めて行くのを感じる。声を洩らす者は無い。
 ──静かだ。
 耳にまた、木々を濡らす小糠雨《こぬかあめ》が戻る。
 その音が次第に道場の中を埋め、双葉も辰雄も一切の動きを止めた。二人の間では明確な予感を持って空気が凝縮し、弾けるその瞬間を待っている…そんな感じ。
 その時、沈黙に耐え切れなくなった庭の鹿威しが、しじまを破って「コトーンッ!」とひとつ高く鳴いた。無機質な音の響き、その余韻も消えぬ内、掛け声を合わせて双葉と辰雄が同時に一歩踏み込んだ。刹那、双葉が又あの瞬間移動。瞬き後には、辰雄のすぐ横に双葉の躰が在った。これにも反応した辰雄が双葉の左足に向けて足払いを打つ。今度はそのタイミングで双葉が後ろに跳んだ。──離れ際、辰雄の竹刀が双葉の右肩、双葉の竹刀が辰雄の首を右から薙いで、短く鋭い音が重なり同時に爆《は》ぜた。
「それまで!」征十郎の野太い声が、強く二人を止める。
「きっつ―」面を取った双葉がその場に座り込んだ。
「ぶっふぅうーっ」此方は立ったまま面を外した辰雄の、地鳴りを連想させる程の深い呼吸。
 凛とあたしを残して、征十郎と和男が二人の元に歩み寄る。双葉を中心とした四人の輪からは、直ぐに笑い声が途切れる事無く聞こえて来て、今の立ち合いの何処に笑いを誘う箇所が有ったのか分からないあたしは、解説を求めて隣に座る凜に顔を振った。
「!?」数秒前まで石化してしまったかのよに身じろぎ一つしなかった凜が、何時のまにやら正座で居ずまいを正し、面を着け始めている。「しゅっ、しゅ―、しゅっ…」道着の擦れる音、紐を結ぶ所作とそれに纏《まつ》わる音の絶え間ゝが生み出す厳《おごそ》かな空気が、凜の纏っている物を軟質から硬質な物へと変えていく。普段目にする事の無い親友の変わり身に、あたしは又、口から零れかけた言葉の形を崩すと、二酸化炭素に変えて吐き出す事しか出来なかった。
 支度を整えた凜が、双葉達に向けて歩を進めて行く。凜が近付くと双葉達の作る固まりから聞こえていた話し声が止んだ。それでも凜に向ける皆の顔には訝《いぶか》しむような色は無く、四人が四人共、一様に涼やかな微笑を浮かべて凜を迎えていた。
「双葉先輩。私も一本お願いします」尖った氷柱みたいな凜の声。
 何時もの双葉の名前を呼ぶ時の甘いコ―ティングは溶けて落ちたのか、或《あるい》は握った竹刀がそうさせるのか。何方《どっち》にしろ聞いた事の無い凜のただならぬ物言いに、あたしだけが戸惑っていた。
「いいよ。やろう」
 何時もと違う凜の雰囲気を視線を外して受け流した双葉は、一瞬浮かんだ優しさと厳しさがごちゃ混ぜになった複雑な表情を面の中に押し込んだ。
 双葉と凜。二人を道場の真ん中に残して、男達があたしの周りに戻って来る。
 あたしと並んで和男と辰雄、二人の後ろ、少し離れて座る征十郎。この時まで、八重さんが居なくなっている事に、あたしは全く気が付かなかった。
「初手ですね」座るなり口を開いた和男に、辰雄が短く答える。「だな」
 征十郎は黙して語らず。
 明かり取りから洩れるそれ程強くない光の中で支度を続ける双葉と、その様子を前に正座で待つ凜。
 さほど時を置かず、双葉も凜を写したみたいに同じ形を取った。
 十メ―トルと離れていないあたし達の居る場所と、双葉と凜の居る畳の上で、時間の流れが異なった一秒、一秒を刻み始める。ゆったりとした動作で一礼して立ち上がる二人。声を掛ける者など居ないのに互いが同じ拍子で二度《ふたたび》礼を送り合う。構えを取った二人から揚がった掛け声は、この立ち合いが単なる練習ではない事を確認しあう響きが有った。
「まだ今の凜じゃ、双葉の攻めは受け切れないだろうな」
 和男の呟きには変わらず感情の色は無く、天気に付いて話すよな平坦な調子を変えない。
「上手くなったんじゃないの?」
 何方《どっち》の味方って訳でも無いのに、なんか黙ってらんなくて言葉を投げつけるあたし。
「そう言ったのは嘘じゃない。同年代じゃ全国レベルで見ても五本の指で足りる位にはな。もう一つ言っておくと、剣道に関して俺は世辞も言わない。…でもな、はなみ。お前の姉ちゃんは十年に一人とかの話じゃない。小さい頃から知っている俺達が見て、"天才"なんて言葉が安っぽくなっちまうような場所に居るんだ。なんてたって親父のお墨付きだしな」言って征十郎に送った視線をあたしも追う。あたし達の視線の先では、征十郎が微苦笑を浮かべながら柔らかな眼差しを凛と双葉に向けていた。
「はなみは凜に勝って欲しいのか?」変わらず言葉に何も載せない話し方で、和男があたしに訊ねる。
「別にそういう訳じゃ…。どっちに勝って欲しいなんて無いけど…、どっちにも負けて欲しく無いだけ」
 これには大の男が三人も揃って言葉ひとつ返してくれない。あたしもそんな薄情な男共は放っといて、二人の動きに集中する事にする。
 凜の竹刀の先が上下に揺れて、踏み込むタイミングを計っているのか、時折止まる。双葉は…、なんだろ?こう言っちゃなんだけど…やる気無さそう。…て言うか、片手で竹刀の先を畳に付けて、小刻みに躰を動かす凛と違って…言ってみれば棒立ち。躰中の何処にも、これと言った動きは無い…ように素人のあたしには見える。…リラックスしてるとも言えるのかも知れないけど…あれって…。
「あんな構え方もあるんだ?」
「無い」
 あたしの問いにこれ以上は望め無い素っ気無さで辰雄が答えをくれる。
「じゃ何で双葉はあんな恰好なの?」
「挑発」「馬鹿にしてんだろ」「本気」
 辰雄、和男、征十郎。今度はあたしの言葉に、それぞれが一度に答えを寄越した。
「挑発とか馬鹿にしてるってのは分かるけど、本気って?」
 凛と双葉に顔を向けたまま、此方も見ずに征十郎が受ける。
「挑発も馬鹿にしてると言うのも確かにその通り、間違いでは無いだろうよ。儂の言った本気とは、それらの少し先、詰まりはそうしてまで尚、凜の本気を引き出そうとする双葉の心の表れだろうと言ってみただけの事」
「あ―ね」と、阿呆丸出しの間の抜けた答えしか返せないあたしは、それ以上に間の抜けた顔を二人に戻した。──「始まる」細かく刻んだ辰雄の言葉。「テェ―ツ!メ―ンッ!」肉食動物みたいな俊敏な動きで凜が双葉に襲い掛かる。和男の思惑に逆らって、初手の打ち込みは凜が先手を取った。一つ目の打ち込みを竹刀で弾いたものの、二つ目を受け損なったのか、体勢を崩した双葉が凜から距離を取るように二歩、三歩と退がる。更に追い縋る凜。「メェ―ッ!ドォ―ッ!」双葉の脇を斬り抜けようと二人の躰が重なった処で、今度は凜が体勢を崩す。あたし達の眼前でそれ迄の軽やかで素早い身のこなしが嘘のよに、無様に躰を畳に擦り付け、倒れ込んだ。
「あいつ…」言って辰雄が吹き出すよに短く笑う。
「どういう事?」
 辰雄は頬を弛ませるだけで、代わりに答えをくれたのは和男だった。
「先の辰雄さんの足払いを双葉がやって見せたんだ。言っても普通は自分がやられたからって、直ぐに出来るよな代物じゃないんだけどな。相手を頼んで習練を積んで…。打ち合いの中で遣える迄になるには、少なくたって一年は掛かる物なんだ。それを一発でとはな…。冗談抜きに俺は少し怖くなったよ」
 凄い事…なのかも知れない。でも、なんでだろう?…らしくない。倒れた凜も自分に起きた事が信じられないのか、直ぐには立ち上がらず膝を立てただけで、低い所から双葉を見上げている。対して双葉は、この立ち合いが始まる前と同じく片手で持った竹刀を畳に付けて、悪びれた様子も無い。
 ──凜がゆっくりと立ち上がる。
「凜にしてみれば正式な試合じゃないとは言え、双葉が足払いなんて信じられないだろうな。もしかしたら失望したかな?」
「悲しんでるんじゃない?双葉はずっと凜の憧れだったから。あんな…卑怯な事、双葉がするなんて…」そうだ。失望とか怒るとか、その前に凜なら多分悲しむ。双葉が足を払うなんて真似を自分に対してした事を…。
 あたしを見る辰雄と和男の眼差しに寂しげな色が差す。自分が口にした事柄がてんで見当違いだった事に気付いた時、黙っていた征十郎が重たい口を開いた。
「卑怯か…。確かにスポ―ツとしてならば、或《あるい》はそうなのかも知れん。だが剣道には武術としての側面が在るのも事実。剣を以《もっ》ての立ち合いとなれば生死を懸けて戦いに臨む気概が必要。其れが在れば自ずと戦い方も武術としての体を成す。スポ―ツと言えど勝負事なれば、気迫で勝る者に天秤が傾くは必定。簡単な理《ことわ》り。なれど頭で解するのと、骨に刻むのとではな…」
「双葉が足を払ったのはその為…?」
「先刻の辰雄の足払いを受けての双葉の有り様。あれを目にしていたなら、はなみも思い至る処は在るだろう」
 ──言われて、頭の中が冷えていく。
 普段とまるで違うロケ―ションに、あたしは目に映る物を在るがままに、まるでカメラに収めるみたいに受け入れて、自分の頭で考えようとしていなかった。彼処《あそこ》に立っているのはあたしの姉と親友だ。何を於《おい》ても相手を思い遣らない理由《わけ》が無い。だとすれば、それが伝わらない二人の筈がないのに…。
 それが間違っていない事を示すよに、立ち上がった凜が発した掛け声は高く澄んで響いた。一段ギアを上げ、鋭い打ち込みで再度双葉に迫る凜。面、胴、小手、左、右、様々な角度から矢継ぎ早に繰り出される竹刀に防戦一方の双葉。
「元立ちってやつ?」和男の横顔に向けたあたしの問い。
「違うな。元立ちってのは、腕力、背筋力、体幹の強さ、そういう物にある程度の差が在って初めて出来る芸当だ。それもお互いが稽古だと認識した上でな。こんな五分の立ち合いでやる事じゃ無い。それに同じ女同士、体格、年齢、どれ一つ取ったって、双葉と凜に其処までの体力の差なんて無いだろう。寧《むし》ろ体力的な事なら凜の方が上なんじやないか」
「じゃあ、なんで…?」
「双葉の足払いはそれなりに効き目が在ったって事だろ。凜の気合いの乗りが一つ違ったみたいだしな。それと…」
「それと?」
「気合いが足りなかったのは、実は双葉の方だったんじゃないか。剣道も続けていない双葉に、凜を打ち据える気勢は何処からも持ってきようも無いだろうし。そもゝ凛と本気で立ち合うには、あいつは優し過ぎる。甘過ぎると言ったっていい。」
 和男の答えはあたしの気持ちの真ん中を正確に射抜いていて、納得出来ない言葉が一語も無かった。
「バッ!ガッ!ババッ!ガッ!」激しい音を伴って、凜の竹刀が鋭さを増す。双葉でも受け切れない打ち込みの躰を削る音が、合間ゝに混じりいる。「俺とやった時より動きがいいな」和男の言葉は変わらず緊張感の欠片も無く、この場の空気に馴染まないのか、溶け込まずに浮き上がった。徐々に回転を上げる凜の打ち込み。受けながら少しずつ退がる双葉の躰が、次第に道場の隅へゝと追い遣られて行く。今まで想像してみる事さえしなかった、双葉が一本を取られる場面が、茲《ここ》に来て漸《ようや》く頭の中で朧気ながら形を成して来る。もう間も無く其れが現実と成るとあたしが確信しかけたその時──
 凛と双葉の竹刀が絡み合い縺《もつ》れ、くるりと弧を描くと凜の竹刀だけが空中に跳ね上がった。
 ──「…袖絡み…」
「えっ…」
 凜の手を離れて、天井に触れそうな程高く揚がった竹刀。その竹刀が床を打つ音が届く前に聞こえた征十郎の呟き。聞き返したあたしの声を、落ちて来た竹刀と受け止めた畳が響き合い打ち消した。今の今まであんなに躍動し、生命力を放っていた凜の躰と凜の竹刀、二つ共が畳の上でその動きを止めた。それにあたしも…。和男と辰雄、征十郎までが…。
 皆がここ迄に見せられたフィルムのひとコマゝを繋ぎ合わせて、自分の中で一連の出来事として受け入れる為の時間が粛々と流れ、その流れに取り残された凜は茫然と立ち尽くしている。
「すげえ…」
 和男の声で、漸くあたしの躰に聴覚が戻った。
 木々を叩く雨音のBGMも自分達の役割を思い出したのか、各々のパ―トを控え目に奏で始める。
「何だったの…今の…?」頭の中で浮かんだ言葉は、考え無しに口から漏れて行く。
 あたしの問い掛けには答えず、征十郎に向けて振り返る和男と辰雄。顔付きから二人もその答えを求めているのだと分かる。
「…袖絡み。古流の内でも免許を許された者。更にその中でも、余程才に恵まれた者にしか遣えんとされている技よ。仕掛けられた者には、自分の刀に相手の着物の袂が巻き付いて絡め捕られるが如く見える様《さま》から其の名が付いたとされているが…」
「親父が教えたんですか?」
「まさか。儂自身試した事さえ無い。当の双葉にしてみた処で、教本で一、二度見た事がある程度だろうよ。…其の教本ですら、全てを判読出来たとはとても思えぬが…。誠《まっこと》…剣の道に生きていればと、今更ながら悔やまれるな。もし剣の道の先に神が居るのであれば、あれ程その神に愛されている者を儂は見たことが無い」
 征十郎の視線が再び双葉と凜に戻って、あたし達も道場の中に眼《まなこ》を返す。その先で双葉が凜に向かって、下からそっと声を投げた。
「もうやめる?」
 たった五文字の小さな塊。打つかって我に
返った凜は一度だけ頭を振ると、床に倒れている自分の竹刀に向けて足を踏み出した。竹刀を手に戻して振り返った凜の声が、それ自体を打ち込む程に力強く響く。
「もう一本お願いします!」
 何も答えず、双葉が上段に構えを取り直す。対を成す凜は中段、正眼の構えを取る。二人が構えを取った事で、道場の中に静けさが戻った。
 今、耳を占めるのは雨音ばかりの筈なのに、届く訳も無い双葉と凜の息遣いを感じる。そしてその後に来るのは、少しずつゝ空気の密度が増していくあの感覚。知らぬ間に呼吸が浅くなっていたあたしは、息苦しさの中に沈んでいた。深く息を吸い込んで楽になろうとするあたしを止める、もう一人の自分。酸素不足が魅せる幻覚なのか、目に映る光景とは別に、脳裏に映し出されたスクリ―ンには、互いを啄《ついば》み戯れる二尾の金魚が泳ぐ──
 一瞬間。あたしの鼓動一つ分の出来事だった。
 先に動いたのは凜…、だったと思う。凜が動き出して一呼吸、ううん、半呼吸かな?とにかく、少しだけずれたタイミングで双葉も動いた。その躰は、凛と重なる寸前でぶれて見える程に一段速さを変える、例の瞬間移動。「パ―ンッ!」と面を打つ一際高い音が天井に打つかって道場全体に拡がった。振り返り、双葉に向き直った凜が、「ありがとうございました!」と頭を垂れた途端、双葉の躰が畳の上に崩れた。
『双葉!』
 声を合わせた誰よりも早く、あたしの足が床を蹴った。