~ 惡ガキノ蕾 ~
 義ヲ見テセザルハ勇ナキ也篇 薫墨意月

     ~浅草今昔物語~
「お待ちどうさん」
 後部座席のドアをスライドさせて、きむ爺が乗り込んで来る。
「双葉は来ないのかい?」
「午後から予約のお客さんがいるんだって」
 草臥《くたび》れてきた店の調理器具と、小物の仕入れも兼ねて買い出しに出る事にしたあたしときむ爺。本日の行き先は合羽橋。
 昨夜《ゆうべ》あたしときむ爺で電車の乗り換えだの時刻表だのを調べてやいのゝやっていると、1週間前車の免許を手に入れた一樹《いっき》が、運転手を買って出てくれて、今運転席に座っている。
「随分といい車じゃねえか」
「ぁん?…ああ、親方が少しは練習しろって貸してくれてよ」
 嘘だ。昨日電話しながら頭下げてんの見ちゃったもんね。
「んじゃ行くか」と独り言の様に一樹が呟いて、車が動き出した。
 学科試験に十四回目で受かった一樹だけど、運転自体には命さえ捨てて掛かれば大した問題は無く、多少の冷や汗は掻いたものの、あたし達は無事目的地へと辿り着く事が出来た。
 買い物を一通り終えた処で、急にきむ爺が焼きカツが食べたいと言い出して、車を浅草に向ける。
 東京メトロの電車と並びレトロな町並みをサイドウインドウに流しながら往来を往く。人力車に運ばれるトトロみたいな…いやもう、ほぼトトロなおばさんに目を奪われボ―ッと思考を揺蕩《たゆた》わせていると、「着いたぞ」と言う一樹の声があたしの意識を捕まえた。
 ガ―ド下に蹲《うずくま》る様にして在るその店は、きらびやかな雰囲気とは縁遠い佇《たたず》まいながら元祖と謳《うた》うだけあって、訪れた人の数だけ味が継ぎ足されているよな趣があり、何とも言えない風情を漂わせていた。
 通された二階のお座敷、さほど待つ事も無く運ばれて来た鉄板の上、ソ―スの弾ける「じゅうっぅぅぅっ―」という効果音と、"香ばしい"の表現そのまんまの食欲を掻き立てる匂いに、口の中は自動的に豚カツを迎え入れる準備が整う。いただきます。
 ──鉄板が奏でる音の余韻と焦げたソ―スの香りが消える間を与えずに、あたしと一樹は箸を置いていた。
 無我夢中で一気喰いしてしまい、少しだけ物足りなさも感じながら店を出る。と、ここでも折角だからと言うきむ爺の誘いで、親方の車を駐車場に待たせたまま仲見世通りを抜けて、一行は浅草寺へと向かう。
 浅草…。パパとじいちゃんが好きだった町。お休みの日、まだ小さかったあたし達を連れて遊びに行くと言えば、花屋敷がお決まりだった。じいちゃんもよく一緒に来ては、大人の花屋敷でお馬さん相手に遊んでいたっけ。ダボシャツに雪駄履きの二人はこの町の景色によく似合ってたなぁ。
 本堂の手前、左右に軒を並べる露店のひとつにきむ爺が鼻緒を寄せる。初下ろしの真新しい雪駄の運びが、今日のお出掛けに機嫌を良くしているのが見て取れて、あたしの気分も上がる。
 お寺って何処も大なり小なり差はあれど、其処には勿論共通して荘厳な雰囲気があるもんで、年に数回とは言え、足を踏み入れる度背筋の伸びる思いがする。でもね、ここ浅草寺って、そういうのとは別になんだか胸の中がウキウキと泡立って来るんだ、あたしの場合。一年中、何時来てもお祭りの薫りが立ち籠めててさ。今日はその薫りに懐かしさと、ちょっぴりの寂しさも感じるあたし。
 たこ焼きの屋台に向かって、先を歩く一樹ときむ爺の背中にパパとじいちゃんが重なる。あたしは幼い頃の記憶の音盤に針を落とす。束の間、常香炉の線香の匂いが鼻腔の奥で強く薫った。


「おう!こら!坊主、向こう行ってやれ!」
 "やきそば"と書かれた庇《ひさし》の奥から飛んで来た熱《いき》り立った怒鳴り声に、一樹の手がピタリと止まった。一樹も未だ小学校一年生、双葉とあたしが保育園の年長、年少と続く今から10年ほど前。我等桜木一家が日曜日を花屋敷で過ごした帰り道、浅草寺に集まる鳩達に餌をあげたいと愚図ったあたし達が、パパとじいちゃんの手を寺の境内に引いて来た処で、一連の騒動の幕は上がったのだった。
 真っ先にパパから餌の入った袋を受け取った一樹が、お相撲さん張りに辺り構わず袋の中身を豪快に撒き散らす。かしがましい羽音と共に一樹に群がる無数の鳩。
 と、そこで先刻の
「おう!こら!坊主、向こう行ってやれ!」
 その声に剣呑な匂いを嗅ぎ取ったパパが、「ぁん?」と、一言洩らして振り返る。
 動きの止まったままの一樹は、手に持った袋の中身を鳩達が食べるのに委《まか》せて、その腕、肩、頭をなん十羽という鳩に留まり木替わりに提供していた。放っておいたら一樹に群がる鳩達にそのまんま空の彼方に連れ去られてしまうんじゃないかと怖くなった幼いあたしは、パパのズボンを掴む手に力を込める。
「うちの子供に何か文句でもあんのか?」
 怒鳴らずとも辺りにじわりと拡がって行く大きな声でそう言うと、"やきそば"と銘打たれた屋台に向かって歩き出すパパ。付いて行くあたし。後ろでは双葉に手を引かれたじいちゃんが、新しい餌を買い求めていた。
 パ―マをかけた髪をリ―ゼントにして、シャツの胸元から刺青の見え隠れするやきそば屋さんの店先、仁王立ちしたパパの横に並んで、あたしも腕を組んで仁王立ちすると、序《つい》でに頬を膨らませた。
「い…いや、旦那のお子さんにって訳じゃないんですけどね」自分に向かって眼を据えたパパの迫力に押されたのか、未だ十代か二十代のお兄さんの口振りと顔付きがその色を変える。
「ちょ…ちょっとこいつを見てやって下さいよ」言って鯉口の袖を捲ったその腕には、刺青に紛れておびただしい湿疹があった。屋台の中に頭を突っ込む様にして、目を細めるパパ。「一体なんだってんだい?そいつは?」
「ハトピ―って言いましてね」
「ハトピ―?」
「鳩の羽とかの影響らしいんですけどね、アトピ―によく似た症状が出るってんで、俺らの間じゃあハトピ―って呼んでんですよ。痒くてゝそりゃあもう大変なんすから」
「へえ。ほんとかい…」すっかり感心した様子で頷くパパが、ふと思い出したみたいに表情を戻して続ける。
「それにしたって子供相手なんだ。もう少し言い方ってもんがあんだろうよ」
「…そいつはまあ、謝りますけどね。何せそう言う訳なんで、どっか他所《よそ》行ってやって下さいよ。…ね、お願いしますよ、旦那」そう言って露店商のお兄さんは強張った愛想笑いを浮かべた。
「やきそば下さいな」
 何時の間にか隣に並んだ双葉の声。その横にはじいちゃん。途端に辺りが翳《かげ》る。「バサッバサッバサッ…バババババババッ!!」物凄い羽音がしたと思ったら、境内にいるほぼ全てと言っていい程の恐ろしい数の鳩、鳩、鳩が一斉にやきそば屋台目掛けて群がり始めた。
「おゎっ!なっ…なんだこりゃ!?向こう行け!畜生!」
 払っても払っても押し寄せるその数軽く百を超えるであろう鳩の大群に、お兄さんはもう、子供から見ても正気を失っている様子だった。暴れ回りながらそこら中に、青のりや紅生姜を撒き散らして喚いている。数羽だと可愛い鳩が、ある一定の数を超えると人に恐怖を感じさせる物に変貌するという事実も、あたしはこの時始めて知った。
 境内に響き渡るお兄さんの阿鼻叫喚を聞きながらパパとじいちゃんの後ろに居たあたしの目には、その間もずっと二人が後ろ手で餌を辺りに撒き続けている光景が映っていたのだった。

 ──「…ふ、戯《ふざけ》んじゃねえぞ爺ぃ!」
 一樹ときむ爺が向かった屋台から怒声がはみ出して、参詣客と観光客、或いはその何方《どちら》でも無い、言ってしまえば周りに居る全ての者が、一斉に顔を向ける中、たこ焼きを手に屋台から一樹が戻って来る。やれゝと言った苦笑いの形に表情を崩して。
「どうかした?」
 二つ持っていたたこ焼きのひとつをあたしに渡しながらベンチに腰掛けた一樹が、そのままの面持ちで話し始める──
 順番を待っていた時から、他の客を相手にしているたこ焼き屋の横柄な態度や口振りにイラッと来ていた一樹が、自分の番になって「たこ焼き三つ」と注文を付けたとこで、横に居たきむ爺が割り込んだ。「ひとつ幾らだい?」するってえと、たこ焼き屋が黙ったまま顔も向けずに、小指の欠けた左手を広げる。500円。此《これ》にはさすがに一樹も"声位出せんだろ!鼻の下に何付けていやがんだ!"と、喉まで出かけたとこを何とか"お寺で騒ぎを起こすのも…"と思い直して、楽しんでいるきむ爺の気持ちに水を差さない為にも耐えた。かなりの努力を必要としたが、耐える事にした。さて、出来上がりまして代金のお支払いとなった処で、財布を開こうとする一樹の手を止めたきむ爺が、もう一方の手で千円札と五百円玉を渡す。それじゃと踵《きびす》をを返そうとする一樹の脇で、何故だかきむ爺には動く気配が無い。不思議に思った一樹が声を掛けようとすると、ニヤリと笑ってきむ爺が口を開いた。
「釣り銭は?」
「あ゙?釣りなんかねえよ。爺さん1500円しか払ってねえだろ」
 一樹も千円札と五百円玉を渡すきむ爺を見ていたから、訳が分からなくなって、たこ焼き屋からもう一度きむ爺に顔を戻す。するときむ爺、カッカッと笑ってこう言った。
「お前さん左手広げたけど、小指は半分しかねえんだから、450円ってとこじゃねえのかい?500円だって言うんなら、逆の手広げねえとなあ」
 はあ―。きむ爺もじいちゃんもパパにしても、なんで昭和生まれってこんなに厄介な人が多いんだろ。戻って来たきむ爺が、「洒落の分かんねえ野郎だ」と文句を言いながら、手に持ったたこ焼きのパックを開ける。「蛸の代わりに指でも入ってんじゃねえだろうな」それを聞いた一樹が口から指……じゃなくて、蛸を飛ばす。
 それ見てきむ爺が惡戯小僧みたいに無邪気に笑った。
 帰り道、土産物屋や小間物屋を一通り冷やかすと、引かれる後ろ髪を引き千切ってあたし達は車に乗り込んだのだった。
 …また来ようね、きむ爺。