一つ一つの音が私の心の中に溶け込んでいく。溶け込むたびにふわりとした暖かさが広がる、上手いのか下手なのかなんて分からない。だけど、桧原(ひばる)が私のために一生懸命弾いてくれている……

 今日は私の誕生日。

 放課後、二人きりの音楽室。廊下側のカーテンは全て閉じている。私がそうした。だって、この時間を、この空間を誰にも邪魔されたくなかったから。

 桧原は吹奏楽部に所属し、また彼が中二まで熱心にピアノを習っていた事を吹奏楽部の顧問も知っていた。だから、放課後、先生にピアノの練習がしたいと言った事に対して、顧問の先生も快く了承してくれたのだろう。

 本当は私にピアノを弾く為なのに。

 体を僅かに揺らしながらピアノを弾いている桧原。私はそんな桧原の姿を見つめている。その姿を忘れないように。
 
 心地よい音が私を包んでいく。

 桧原と一緒に何度も何度も聴いていたこの曲。自然と口ずさむ程になっていたこの曲。

 ショパン『ノクターン第二番』
 
 私の一番好きな曲。
 
 桧原と出会い、知った曲。

 もうすぐ、この幸せな時間も終わりを告げる。

 もっと早く君を見つけられたら良かったのにな……
 
 もっと早く君とお喋りできてたら良かったのにな……
 
 もっと早く君と仲良くできてたら良かったのにな……
 
 もっと早く君の事を好きになっていれば良かったのにな……
 
 まだ喋り足りないよ……
 
 まだ一緒に曲を聞きたいよ……
 
 まだ……
 
 君の隣にいたいよ……

 ピアノの音がとまり、ふぅっと桧原の吐く息が聞こえてきた。

「ありがとう、桧原……私……絶対、忘れない……この日の事をずっと覚えとくけん」

「大袈裟だよ……でも喜んでくれたのなら良かったよ」

 お礼を言った私の方へはにかむ様な笑顔を見せながら答える桧原。

「ううん……大袈裟なんかじゃなかよ。本当に最高の誕生日プレゼントやったよ」

 私は自分の目頭が熱くなっていくのが分かった。泣いちゃだめだ。泣かないんだ。そう決めていたのに、私の意思とは裏腹に、ぽろりと一雫の涙が零れ落ちていく。

「五木さん……」

 一度、流れ始めた涙は止める事が出来ずに、次から次に溢れ出てくる。どうしようもなかった。私はただこの気持ちに逆らえなかった。

「ねぇ……涙が止まるまで……手を……繋いでて」

 差し出した私の手のひらを桧原が優しく握ってくれた。思っていたよりも手のひらが大きかった。そして、暖かった。

 桧原は何も言わずに私が泣き止むまでずっと手を繋いでいてくれていた。

「ありがとう……桧原」

 やっと涙が止まった私はぐすりと鼻を啜り檜原へとお礼を言うと、桧原はいつものふわりとした笑い方で応えてくれた。

 好きだなぁ……その笑顔。

 でも、それが側で見れるのもあと少しの間。

 手を離さず、自分をじっと見つめる私に照れたのか、少し戸惑っている桧原に私は、伝えなければ行けない事を口にした。

「私ね……引っ越すの……」