濃藍色と茜色が交わる夕方の空を見上げ、鼻歌を口ずさむ五木さん。口ずさんでいる曲は、二人の秘密基地でよく聴いている曲のひとつ。
 
「危なかよ……五木さん」
 
 五木さんは歩道と道路の境にある縁石の上を部活の道具が入ったリュックを背負い、軽い足取りでバランスよく歩いている。
 
「大丈夫、大丈夫」
 
 ふんわりと笑いながら僕の方へと振り返りながらそう言うと、また空へと顔を向けた。
 
 僕と五木さんは昼休み、屋上出入口の前にある踊り場で過ごす事がある。五木さん曰く、二人の秘密基地。毎日ではない。時々である。五木さんが秘密基地に来たい時にLINEに連絡がくる。それだけの関係。校内の他の場所で喋る事もほとんどないし、ましてや、今日のように一緒に下校するなんて初めてである。
 
 じゃあ何故、一緒に帰っているかって?
 
 偶然である。
 
 僕の所属する吹奏楽部と五木さんの所属する女子テニス部の下校時間が重り、正門を出た辺りで五木さんから声を掛けられた。
 
「ピアノ、練習しとるん?」
 
「しとるよ」
 
 ピアノの練習。僕は小さな頃から中二の終わりまでピアノを習っていた事もあり、そこそこは弾ける。それを知っていた五木さんから、自分の誕生日にピアノを弾いてくれと頼まれていたのだ。ピアノを辞めて数ヶ月。全く触っていないわけではないけど、以前のように滑らかに弾ける自身はない。だから、練習している。別にコンテストに出るわけじゃないのに。
 
 みっともない姿を見せたくないし、五木さんに喜んで貰いたい。
 
 それだけのため。
 
「桧原の負担になっとるんなら、無理せんで良かけんね……」
 
 空を見上げたまま五木さんが僕に言った。僕も同じ方向へ視線を向ける。
 
「負担になっとらんし、ピアノ弾くのも嫌いじゃなかけん、僕は楽しんどるよ」
 
「そっか、それなら良かった」
 
 ゆっくりと左右に体を揺らしながら、また鼻歌を口ずさんでいる。そんな五木さんの動きに合わせ、制服のスカートがひらりひらり舞っていた。ショパン『ノクターン第二番』。五木さんが一番好きと言っていた曲。
 
「桧原さぁ……私とおって迷惑しとらん、嫌じゃなかと?」
 
「うん、別に嫌じゃなかけど?」
 
「ほんとに?気ば使っとらん?」
 
「今更、気なんか使っとらんよ」
 
「そっか」
 
 しばらく会話もなく歩いていると、突然、とんっと縁石から降り僕の少し前で立ち止まった。僕も思わず足を止めてしまう。
 
「あのさ……桧原」
 
 くるりと振り返った五木さんが僕を真っ直ぐに見つめてきた。いつになく真剣な眼差しに、僕は五木さんから目を逸らす事が出来なかった。
 
「……ごめん、やっぱ何でもなか」
 
 僕は五木さんの言葉をまった。だけど彼女は言葉を続けずに僕へ謝り、どこか寂しそうに微笑んだ。そして、僕から目を逸らし、また僕へと背を向けた。
 
「あぁ……もう少し早うしとけば良かった」

 小さな彼女の呟きが僕の耳へと届く。その呟きの意味は分からなかったが、いつものような明るさが今の五木さんからは感じない。どこか無理をしているような、わざと笑ってくれている気がした。