「なんです、なんです、進さんもすみに置けないんだから。
 雁のたよりみたいな艶話とは無縁だと思ってたのに。」

「どうも、それがし堀田徳太郎と申します。
 進さんとは酒の結ぶ縁って奴ですねえ。」



徳太郎はこの呑み屋で、半ば強引に蔵之進と呑み友達になりました。
彼は藩の屋敷に仕える身分ながら、芝居小屋に入り浸る遊び人です。
蔵之進のようなやくざ者とも付き合いがあって、
簡単な仕事の手伝いを頼んだりするのだそうです。



徳太郎が恋愛話の演目を引き合いに出すのも、
そういう性分がさせているのでした。



「馬ァ鹿野郎、そういうんじゃねえんだ。
 てめえこそ芝居なんぞに金と暇をつぎ込みやがって。」



蔵之進は徳太郎の芝居狂いにも、このようにいつも冷ややかでした。
もっとも蔵之進の態度は享楽に生きる徳太郎に怒るよりも
役者や芝居そのものを嫌っているように見えます。



しかし徳太郎はこのような男なので、
揶揄は馬に念仏を唱えるより無駄でありました。



「あの、紅……です……。その……。」



「ベニ公もとっとと座れ。じいさん、手ぬぐいあるか。」

「この娘に芋の煮たのでもなんでも、食えるもん寄越してくれ。
 それからもう一つ徳利たのまあ。
 同じ徳でもこの野郎じゃ悪酔いにもならねえ。」



蔵之進の一喝で、ようやくお紅も席につきます。
彼女が座るや徳太郎は立て板に水を流すように蔵之進との間柄を話して
酔える友に無粋は無用なのさ、とお紅へ胸を張りました。



ややあって、お紅よりもさらに背丈が半分くらいしかない老人が
手ぬぐいと料理の支度を持ってのっそりやってきます。



老人はお紅の濡れた髪や着物を気に留めるふうもなく、
元通り台所に引っ込んでしまいました。
その無愛想さが今のお紅には、どこか気遣いのようにも感じられたのです。
皿では茄子の田楽が、焼けた味噌のよい香りを振りまいていました。



「進さんは灘のお酒が大好きだからなぁ。
 あ、そういう話もう寝物語にしました?」



「えっ!?!?」



「ぶっ叩かれてえか。それより都合して欲しいもんがあるんだ。」



ぎろっと睨む蔵之進をよそに徳太郎は
涼しい顔で壬生菜のお浸しをつまんでいます。
お紅はご飯を喉に詰まらせそうになって咳き込んでいましたが、
そこで自分が夢中で食事をしていたことにようやく、お紅は気づいたのです。



最後に食事らしい食事をしたのは何日前だったか。
店主の料理はとても味がよく、味噌の優しい香ばしさと甘さが
飢えた胃にも自然と入って満たします。



蔵之進が話題に出すまで、徳太郎もお紅のひどい格好に
一言も触れようとしませんでした。
そういう彼の器量は、徳と呼ぶこの青年を
蔵之進が本気では邪険にしない理由のようにも見えるのです。



「こいつに代わりの服をどうにかしたい。簀巻きにするわけにもいかんだろ。」



「へーえ。こんな紙切れで殺されかけるなんて、ついてない子だな。」

「ちょっと行った先に馴染みの子が住んでます。
 すぐ行って見繕ってきますよ。」



今までのいきさつを聞いた徳太郎は、書状をまじまじと見ていたのですが
さも世間話をするように着物の世話を申し出ました。