「おう、やってるかい。」



ガラッと開いた戸から、しかめっ面の任侠者が顔を突っ込んできます。



この顔にピンと来たら何とやら。
先ほどお紅をひょんなことから助けた、馬場蔵之進その人でありました。



「あれぇ、進さんだ。こっちこっち。」



賀茂川の一件から半刻足らず。
蔵之進は虫籠窓が静かに並ぶ夜の町家を横目に通り過ぎながら、
古ぼけた提灯のぶら下がった小さな呑み屋へ入ります。



汚れた壁や申し訳程度の犬矢来がみすぼらしい店構えのままに
店の中も薄暗く、小さな木机を囲むように木の椅子がわずかばかり。
奥にささくれだった畳でつくった申し訳程度な座敷があるきりです。



入ってくる客が無造作なら、店の主も愛想よい挨拶ひとつしません。
店主は黙って台所に引っ込んだまま出てこないのです。
代わりに座敷から、少年のようなかわいらしい声が蔵之進を呼びました。



「てめえ徳太郎、またこんな遅くまでほっつき歩きやがって。
 扶持取りが泣くぜ、おい。」



「何言ってるのさ。こんな店で暮四つの鐘が鳴るまで呑むようなの、
 わたしと進さんくらいじゃないか。」

「わたしが夜遊びするからこそ、ここのじいさんも食ってゆけるってもんだよ。」



返事と一緒に座敷からひょっこり出てきた顔は、
お日さまみたいににやけていました。
暮れ四つとは、今の午後十時ごろです。



徳太郎と呼ばれた侍は鼻の下に髭こそたくわえていますが、
声と同じように顔はとても童顔でした。



頬は赤くてまん丸で、くりんとした目が喋るたびきょろきょろと動きます。
ひょっとしたら幼い顔を気にしてこんな髭にしているのかも知れません。



蔵之進の言う扶持取りとは藩に仕えて扶持米、
つまり給料を受け取っている侍です。
仕立ての良い羽織に袴、刀を大小二本差しという徳太郎の身なりは、
彼の収入が安定している証拠でもありました



お紅はと言えば、やっと店に入る決心がついたようで
幽霊みたいに敷居をゆっくりまたぎました。
しょんぼりしているお紅を見るや
徳太郎は首をゆっくり傾げ、やんややんやと色めき立ちます。