「まったく無駄な喧嘩……おおう。」
渋みのある表情で身を翻すやくざ者の颯爽な仕草は、
途中でかっこ悪く驚いて中断されてしまいます。
それもそのはず、朧月党が奪いそこねた書状を握ったまま、
濡れ鼠の幽霊のようなお紅が目の前にいたのです。
「あ、あ……。」
「そら、てめえもどこへなりと行っちまえ。」
任侠はずんずん行こうとするのですが、
十歩すすんでは振り返りると娘は三歩進んで立ち止まっている。
早足でもう十歩を前に行ったら、娘もまた三歩先にいます。
「ぬ、ぬ、ああくそっ。」
渡世人はむきになって肩をいからせて歩き始めます。
今度こそ置いてきぼりにしたろうと、彼が三度振り返る。
「………おまえなあ。」
渡世人の期待をあざ笑うようにどこかで野良犬がオーンと鳴く。
やっぱり、娘は同じように後ろをついて来て所在なさげに立っています。
まるで自分の影法師と追いかけっこをしているようで、きりがありません。
「そんな犬が捨てられるような目ぇするない。こちとら宿無しの身だぜ。」
「その目、目をやめろってんだ。なんだいなんだい。」
どこへと言われても、行く所なんかないのです。
いつまでも立ち上がらないお紅に、渡世人も察したようでした。
「あーーーーーーァ、迷惑千万。」
「来い、とっとと来やがれ。一晩の飯くらいはあてがあらぁ。」
「…………。」
「来いってんだろ。だいいち、礼も言えねえのかい。」
「……ごめんなさい……。」
「ちぇっ、ちぇっ、いいや。名前はなんてんだよ。」
やくざ者がばつが悪そうに舌打ちするのは、
善いことをするのに慣れていないためでした。
けれどお紅にとっては京で初めて触れた優しさです。
頭の奥の奥まで冷え切っていたのが、急に暖かくなるように思いました。
たぶん人間は飯を食べなければ運動できないように、
誰かに優しくしてもらってようやく心を動かせるのです。
「お紅、と申します……あの、おやくざさんのお名前を。」
「今度はおやくざと来やがった。まァこの出で立ちじゃ、そう思うだろうよ。」
「俺ァ、馬場蔵之進。故あって浮世を渡る遊び人よ。」
かぶりを振って名乗る男の細面に、さっと月の光が差しました。
引き締まった頬に、大きくて鋭いが濁りのない目。
小さめの口を程よく顎がかたどっていて、
歌舞伎の助六役めいた粋がただよいます。
やくざ者は役者絵に描かれたような、匂い立つ美男だったのです。
これがお紅と蔵之進の出会いでした。
そして彼らをめぐる、不思議な縁の始まりでございます。
この夜の続きは、またいずれの時に。