蔵之進さんは、そんな人じゃありません。
お紅がそう声を挙げようとしましたところ。
「五条の橋で女相手に弁慶の真似事かい、ちと笑えねェ芝居だな。」
板張りの舞台にチョチョンと栃(き)の音がひらめき
お紅にも朧月党にも聞き覚えのある声が降って湧いたのです。
「天下の往来をどこへ行こうが俺の勝手。」
「さあさ、とくと御覧じろ。てめえらの目当てはこれだろうがっ」
檜の板でつくった舞台の真ん中に、奈落からセリで昇ってきたのは
黒地に金糸の着流しへ鉄製の長煙管をたずさえた姿。
女を助ける渡世人の役を務めるのは、ほかでもない馬場蔵之進その人でした。
高々と掲げた手には折りたたまれた書付けが握られています。
「進さん……。」
「やつめ、現れやがった。」
「それよりあの書状だ。まさか、まさかっ。」
朧月党が狼狽した理由は、蔵之進がおもむろに書状を取り出したことでした。
渡世人役が書状を掲げる場面など、
今日までこの芝居では一度もなかったのです。
「今宵の月を証人にこの文、俺があらためてやる。」
「ええと、なになに。以下の者、志を……。」
仰々しく紙を広げた蔵之進に、客席の朧月党は弾かれたように立ち上がるや
われさきに舞台に駆け上がろうとします。
この書状は彼らにとっても急所なのです。
明らかになってしまえば、事件が露見してしまうかも知れません。
もっとも、書状を公にするのは蔵之進たちにとっても危険な手段です。
事件との関わりを自ら白状するのですから、
場所を誤れば役人に捕まってしまうかも知れません。
この舞台の上でなら観客は芝居の台詞としか思いませんし、
眼の前の朧月党にだけ肝を冷やさせることができる。
そう踏んだ蔵之進の賭けでした。
