「この、ちくしょう!!」



朝早くから長屋を揺らす蔵之進の声に、両隣の住人が肝をつぶします。
布団はおろか、長屋の中に見慣れた姿がどこにもありません。
風に吹かれて飛んでしまったように、お紅が突然かき消えてしまったのです。



「女を預り候。件の文、芝居小屋まで持って来るべし。」



代わりにあったのは、土間に放り込まれた置き手紙だけでした。
お紅が手紙が書いたのは蔵之進が目を覚ます少し前でした。



「声を出すな。出せばお前はおろか、ここいら中の貧乏人が死ぬぞ。」



表へ井戸の水を汲みに来たお紅に、見覚えのある浪人が立ちふさがったのです。
川辺で蔵之進に顔を蹴られ、彼とお紅の居場所をつかんだ包帯男でした。
鼻へ横一文字に布を巻かれた傷の手当が痛々しくもあり、間抜けでもあり。



「…………」



朝の肌寒さを忘れるほど背中が凍りつく思いのお紅ですが、
ここまで二人でやってきた生活が不意に思い出されます。



「……ここにお探しのものはありません。」

「蔵之進さんが段取りを決めています。どうかその通りに。」

「嫌なら、ここでお手打ちにどうぞ。もともと川に投げた身です。」



そしてゆっくり口を開くといつになく意志の強い表情で、お紅はそう答えました。
住む場所に押しかければ事は済むと考えていたのか
面倒くさそうに、包帯姿の浪人は少しの間黙っていました。



「えい、ならば貴様が引き換えじゃ。」



こうして朧月党は、お紅を連れ去ってしまいました。
蔵之進のもつ書状を人質と交換しようと言うのです。

交換は芝居のあと、小屋の裏にてとありました。
その時でなければあの人は書状を渡さないと、
お紅は浪人の言うことを頑として聞かなかったのです。