彼は疑う私の手を取って「こっちへ来て」、と水道局の建物の横に向かって歩いた。

 そこには駐車場と植え込みがあるだけだった。特別変わったものはない。

「こんなところ入ったら、怒られるよ」

 局員に見つからないか冷や冷やしていると、彼は私の方を向いてふっと笑みを浮かべた。

「それ、前に俺が言ったセリフ」

「え?」

「朝陽は、ここに見覚えない?」

 そう尋ねられて、私は改めて周囲を見回した。水道局は昔からあったから存在自体は覚えているが、記憶に残るようなことはなにもなかった。

 答えずにいると彼は残念そうな顔をした。

「……やっぱり覚えてないか」

「ここに、何かあったの……?」

「前に、俺がカブトムシの話したの覚えてる?」

 しばらく考え、デートに付随した記憶を引っ張り出す。確か、そんな話をしたような気がする。私は頷いた。

「カブトムシを埋めたの、ここなんだ。それで、その時手伝ってくれたのが、君だった」

「え?」

「覚えてない?」

 私はもう一度頷く。

 彼と一緒にそんなことをした記憶は一度もない。もしかしたらもっと前のことなのかもしれないが、思い出せる限り私と彼の最初の記憶は私が絵を描いていたときのあれだけだ。

「朝陽は俺が困ってたら声を掛けてくれた。そしたらこの場所に案内してくれたんだ」

「私が?」

「そうだよ。それで二人で一緒にカブトムシを埋めたんだ。すごく前のことだから、覚えてなくても不思議じゃないけど……」

「……どうして今、そんなこと言うの……?」

「朝陽。俺は結構前から、嘘をついてたんだ」

「え?」

 まだあるのかと、また私の胸がズキンと痛む。けれど彼の表情はそんな私の気持ちとは裏腹に穏やかだ。

「初めて朝陽と喋った時、すごく優しい子だなと思った。それから何度か君を探して、俺はこの近くをよく通ってたから、朝陽がいつも公民館で絵を習ってることに気がついた。朝陽は週に何度か絵を習いに行ってた。だから俺は、その近くの図書館に通った」

 口を開いたまま驚いている私に、彼は続けた。

「声を掛けて、仲良くなりたかったんだ。けど俺は絵のことはよく分からないし、『うまいね』、ぐらいしか言えない。君は絵を描くことに夢中だったから俺とはあんまり喋ってくれなかったけど、俺にとっては大事な時間だったんだ。けど中学になって朝陽は絵画教室に来なくなった。俺とは学校も違ったし、全然喋る機会がなくなって、もう君とは会えないと思ってた。でも、高校に入ったらまた会えた」

 その時彼はとても嬉しそうな顔をした。これが嘘だったら、この世には何も真実などないと思えるほど、幸せそうで、悲しそうな顔だった。

「けど、前みたいには出来なかったんだ。大したこともしてないのに、俺が何かするとみんな騒ぎ始めて、正直言うと迷惑だったよ。だから朝陽がみんなに混じってるのはすごく複雑だった。でも、嬉しかったんだ。朝陽は俺のことちゃんと覚えてたし、話した君は昔と全然変わってなかったから。俺のことが好きってことも、なんとなく気付いてた」

「じゃあ、どうして……」

 ────なぎさちゃんと付き合ったの?