帰宅したのは深夜近くになってからだった。

 アパートの鍵を開け、中に入ると真っ暗な部屋が迎える。

 オートロックもなければベランダもない。家賃が安くてトイレと風呂があったから決めた部屋だ。部屋は全部畳だし窓は擦りガラスで外の景色なんて全く見えない。歩くたびにギシギシ音がするし、今開けた扉だって本気になれば壊せてしまえるのではないだろうか。

 こんなオンボロのアパートでも綾芽にとっては城だ。何年も住んでいるからそれなりに愛着が湧いていた。

 ビアガーデンにいたせいか肉と酒の匂いが染み付いている気がする。さすがに今日は風呂に浸かった方がいいだろう。綾芽は風呂場に向かった。

 風呂はユニットバスだが、誰も遊びに来るようなことはないので困ったことはない。お湯と水の蛇口を両方捻らなければちょうどいい湯加減にならないのが難点だが、慣れればなんということもない。

 不意に、玄関のチャイムが鳴った。こんな深夜にいったい誰だろうか。尋ねてくる人間なんて家主か新聞の勧誘ぐらいしかいないが、この時間に来ることは滅多にない。

 綾芽はそろりとドアスコープに近づいてレンズを覗き込んだ。そこに映っていたのは見覚えのある男性だった。綾芽は少し考えて、あっ! と思わず後ろに下がった。

「いるなら早く出てこい。俺は暇じゃねえんだ」

 男はドアスコープをジロリと睨んだ。

 確か、聖が夫と紹介していた人物だ。ということは、彼が藤宮コーポレーションの常務取締役だ。そんな人物がなぜこんなところにいるのだろうか。

 兎にも角にも常務を待たせるわけにはいかない。綾芽は慌てて玄関の扉を開けた。

「……こんばんは。あの、どうして……」

 綾芽は一瞬、もしかしたら青葉が言って彼を寄越したのかもしれないと期待した。だが、すぐにその妄想は否定した。青葉は自分を拒絶したのだ。そんなことあるわけがない。だが、他に常務が来るような理由はあるだろうか。コンビニはすでに辞めている。

「解雇通知書だ。お前が取りにこねえから持って来てやったんだ」

 常務は茶封筒を手渡した。綾芽はその中を確認した。確かに一枚、紙が入っている。

「……わざわざありがとうございます」

「なんでお前らはどっちも失恋したみてぇな顔してるんだかな」

「え……」

「アイツを庇うわけじゃねえが、自分が一度でも信じた男をそんな簡単に疑うな。お前にとってアイツはその程度の男だったのか?」

「あ……あなたに何が分かるんですか!」

 綾芽は思わず喚いた。自分だって疑いたくはない。だが、青葉に否定されてしまったのだ。それならもうどうしようもないと諦めなければならないだろう。

「分からねえよ。けどな、アイツは一瞬の感情に振り回されるような軟派な男じゃねえんだ。お前のことばっか考えて、お前のことで苦しんでる」

「え────」

「融通きかねえクソ真面目男が、お前にやったことで今どんなふうに思ってるか。今まで見て来たんなら分かるだろ」

 常務は綾芽を咎めるような瞳で見つめた。

 なら、青葉のあの言葉はいったいなんだったというのだろう。あの「ごめん」の意味は、自分との時間を後悔したという意味ではなかったのか。

「もう一つだけ言っておく。藤宮家の執事は、潰れるほど飲むような教育は受けてねえ。ま、多少本音は出るけどな」

「え?」

 じゃあな、と言って常務は背を向けた。

 綾芽は静かに扉を閉め、貯めっぱなしにしていた風呂の蛇口を閉じた。

 部屋に戻り、もらった茶封筒の中身をもう一度取り出した。解雇通知書と一緒に、何かが引っ張られるように床に落ちた。

「手紙……?」

 薄紫色の封筒を見て、綾芽は一番に青葉を思い出した。これを入れたのは青葉ではないだろうか。そんな気がして、慌ててのり付けもされていないそれを開けた。

『大切な話があるので、木曜の十二時にいつもの場所に来てください』

 手紙は短く、簡潔なものだった。手紙というより、指令に近いかもしれない。詳細は書かれていなかったが、すぐにどこか分かった。

 綾芽はそっと手紙を閉じ、俯いた。

 もし、青葉にまた嫌な現実を突きつけられたらどうしよう。それならこのまま会わずにいる方がずっといい。けれど、先ほど常務が言っていた言葉が気になった。

 青葉は、一体何に苦しんでいるのだろうか。まさか自分が連絡を絶ったからなのか。なら、あのごめんの意味は────。