青葉と一緒にランチしなくなって二週間が経った。

 昼休憩になるとすぐに外に出る準備をしていたが、今はもうその必要もない。青葉にはっきりと告げてから、彼からメッセージが来ることはもうなかった。

 もうすぐ十二時だ。今日も人の波をひたすら捌いて、暗いバックヤードでおにぎりをかじるのだろう。

 十二時を過ぎてすぐ、綾芽はレジの対応に追われた。

 相変わらずよく混む店だが、ありがたいことに社員達はコンビニのレンジを使わず自分の部署に置かれたレンジを使っているのか、温めなくてもいいという客が多かった。客も、待ちたくないから敢えてそうしているのだろう。

 三十分ほどすると客は引いていった。そろそろ自分も昼休憩に行こうかとレジに休止の札を立てようとした時だった。

 入店のBGMが鳴って、綾芽は慌てて顔をあげた。  

 入ってきたのはあの女性────藤宮コーポレーションの社長、聖だった。

 聖は商品を見るでもなく真っ直ぐにレジへと来た。

「こんにちは」

「い……いらっしゃいませ」

「ちょっといい? お話ししたいことがあるの」

 聖は店長に声を掛けた。店長は一つ返事で了承した。当然だ。社長からの頼みを断るわけがない。

 綾芽は何がなんだかわからないまま、聖に店の外へと連れ出された。

 聖はそのまま会社の外へと歩いた。やがてあの公園に入ると、近くにあったベンチに腰掛けた。

 いつも座っているベンチではないが、この場所に来たことでまた頭の中に過去の記憶が蘇る。

 聖は一体どうしてこんなところに呼び出したのだろうか。まさか青葉のことで何か言われて、自分をクビにするつもりなのだろうか。

 ────それならそれでいいかもしれない。

 どうせあの場所にいても青葉のことを思い出すだけだ。それならいっそ離れてしまったほうが青葉だってせいせいするだろう。

 時給のいいバイトがなくなると困るが、それよりもこの悲しみをどうにかしたかった。

「ごめんなさい。休憩の時間だったのに」

「いえ……」

「単刀直入に聞くわね。俊介と何かあった?」

 やはりそう来たか。綾芽はその質問が来ることをある程度予測していたはずだったのに、らしくなく動揺してしまった。

「なにもありません。ただ、私の仕事が少し忙しいだけです」

「……そう。彼があなたに何か不利益なことをしたのなら謝るわ。あなたが望むならそれなりの処罰を考える。彼は私の部下だけど、だからと言ってなんでもしていいわけじゃ────」

「っそんなんじゃありません!!」

 綾芽は思わず声を荒げた。自分が勝手に身を引いただけなのだ。青葉はなにもしていない。こんなことで青葉がもし降格したり減給されてしまったら────そう思うといてもたってもいられなかった。

「青葉さんはなにもしていません! だから罰なんて与えないでください! あの人は────」

「分かってるわ」

「え……?」

「俊介がなにもしてないことも、あなたがまだ、俊介のこととても大事に思ってることも」

 聖は柔らかく微笑んだ。逆に綾芽は首を傾げた。

「俊介は不器用だし真面目すぎるところがたまに傷だけど、あなたを傷付けるようなことはしないって思ってた。それにあなたも、俊介のこと想ってくれてると思ってた」

「私は……」

「どうして急に避けるようになったの?」

 こんなことは言うべきではない。だが、聖が社長だからか、それとも気安い雰囲気だからか、頑なな気持ちが和らいだ。

 いや、抱え込むことに疲れたからかもしれない。青葉に出会う前までは平気だったのに、こんなことも一人で耐えきれなくなった。

「……聖さんは、藤宮グループの社長だったんですね」

「え────」

 聖はとても驚いた顔をしていた。それは知らなかったの? という顔だろうか。それとも、知っていたの? という顔だろうか。

「青葉さんが社長秘書だなんて、知りませんでした」

「……どこでそれを?」

「……この間のイベントで、そう呼ばれているのを聞いたんです」

 どうやら後者のようだ。聖は青葉と同じで敢えてそれを黙っていたのだろう。「知られているとは思わなかった」とでもいうような顔をしていた。

「今まで……なにも知らずに、失礼なことをして申し訳ありませんでした」

「気にしないで。社長なんてただの役職名よ」

「でも、私にとっては上司です。あんな態度をとるべきではありませんでした」

「……それが俊介を避け始めた理由?」

 綾芽は返事する代わりに頷いた。

「俊介が秘書であることを黙っていたのは、あなたに気を遣わせるのが嫌だったからよ。決して騙そうと思っていたんじゃない。結果的にはそうなったかもしれないけど……」

「分かっています……」

「じゃあどうして?」

「私みたいな人間じゃ……青葉さんに不釣り合いなんです」

 あの時は横に並んで一緒に食事していた。青葉は嬉しそうに笑って、作った食事の説明をしてくれた。青葉がいなかったら、食事することがあんなに楽しいと思うことはなかっただろう。

 けれどそれは青葉が誤解しているからだ。青葉が自分に嘘をついていたように、自分も青葉に嘘をついていた。

「不釣り合いなんて……そんなことないわ。いつも一所懸命頑張ってるじゃない。バイトとか社員とか、そんなこと関係ない」

「青葉さんは知らないんです……っ。私、本当は奨学金を返すためにバイトしてるわけじゃない……親の借金を返すために働いてるだけで、全然努力もしてないんです……っ」

 こんな人間がどうやって青葉の隣に立てるというのだろう。借金を返すまであと何年かかるか分からない。青葉と一緒にいたら確実におんぶに抱っこの状態になる。 

 それに借金があると聞いていい気持ちになることはないだろう。普通の人間は嫌厭したがるものだ。父親が死んだあと親戚が離れていったように。

 愚かなことだ。それでも青葉が平社員なら、まだ安心していられたと思っている自分がいる。そんなわけがない。本当は最初から駄目だったのだ。

「借金があるからって人を避けるような人間なら私が先に切ってるわ」

「自信がないんです……」

 聖のいう通り、青葉はそんなことで人を避けたりしないかもしれない。青葉は優しいから、きっと話を聞いてくれるだろう。だが、青葉に釣り合う人間になれるわけではない。

 周りには青葉に釣り合う女性が山ほどいる。そんな中で青葉が自分を選ぶわけがない。

「じゃあ、自信があったら綾芽ちゃんは俊介と一緒にいられる?」

「それは……」

「自信っていうのは、お金や見てくれのことじゃない。自分で自分を認める力のことよ」

「そんなもの……最初からありません」

「不思議ね。俊介もいつも自信なさそうなの」

「……青葉さんがですか?」

「そう。あなたと出会ったはじめぐらいから、いつもあなたを怒らせたんじゃないか、喜んでもらえなかったか、そんなことばかり言ってるわ」

 確かに、いつも青葉は謝っていた。それはいつも自分が怒ってばかりだったからだろう。

「でもね、それと同じくらいあなたといて楽しそうだった。俊介ね、木曜日は事務所勤務の日って勝手に決めてるの。その日だけは打ち合わせもなにも入れないで、ずっと事務仕事してるのよ」

 聖はあなたと会うためにね、と付け足した。

「強制はできないけど、もしあなたがほんの少しでも俊介のこと想ってるならもう一度考えてみて」

「でも……」

「俊介のこと、大事だからさっき庇ったんでしょう?」

 綾芽は答えられなかった。なにもかも聖のいう通りだ。自信のなさも、青葉への想いも。

 けれどまだ踏ん切りがつかない。冷たい言い方をしたせいで今まで築いてきた関係が全て台無しになったのではないかと心配になった。

「……青葉さん、きっと怒っています」

「そんなことないわ」

「どうしてですか」

「女性はどんな花をもらったら喜ぶかって聞かれたもの」

 まだもらったわけでもないのに、顔が熱くなった。青葉はその花をどうするつもりなのだろう。

 別の女性に渡すのかもしれない。それは自分のものでないかもしれない。それなにのまた期待していた。

 花を教えて欲しいと言った青葉が嬉しそうに笑っていたからだ。