──ヴァルト=フォン=ベルデナーレ、恐ろしい御方ですわ……!!

 私はホールの隅へ退くや否や、治まる気配のない頬の熱を冷ますべく、手を押し当てました。
 どんな殿方もライトアップされたホールでは素敵に見えてしまう、いわゆる夜会マジックにしては随分と効果が強すぎます。まるでお酒に酔ったかのようですもの。

 いえ、そもそも私はいい加減にヴァルト様がベルデナーレ王子であることを理解すべきかしら。ヴァルト様が毎日ただひたすら筋肉のことばかり考えている無愛想な王子ではなく、文武両道どころか様々な作法にも長けた真面目な御方だと。
 それだけではありませんわ。私に今の今までそういった畏れ多さを感じさせなかったのも、ヴァルト様の気遣いである可能性が出てきてしまいました。
 私たちが特殊な状況に置かれていたこともありますが──それを抜きにしても、ヴァルト様の寛大さには目を瞠るばかりです。

「はぁ~……!? も、申し訳ありませんわ、私って何て呑気な女だったのでしょうか、てっきり私の類稀なる世渡り上手のおかげで良好な関係が築けていたのかと、いえそれも当然あるでしょうねリシェルはいい子だもの」
「いきなり何事だ」

 溜息交じりに自画自賛を始めた私に、ヴァルト様は疑問符を浮かべながらも椅子を勧めてくださいました。

「体調は?」
「あっ、だ、大丈夫ですわ。ヴァルト様も眩暈などはございませんの?」
「今のところはな。……ローレント嬢、本当に何もないのか」

 ヴァルト様は少しばかり背を屈めると、私の前髪をそっと退けました。たったそれだけの仕草でまたもや頬に熱が集まり、私は混乱と共に視線を彷徨わせてしまいます。

「……。ここにいろ、すぐに戻る」
「へ!? ど、どちらへ?」
「水を貰ってくる」

 近場のテーブルを顎で指し、ヴァルト様は「あれぐらいの距離なら意識も飛ばんだろう」と付け加えました。
 確かカルミネ様曰く、ホールの端と端まで私たちが離れてしまえば、応急薬の効果が薄まるとか。つまり意識が飛んだり発汗したり鼻詰まりが起きたりするわけですわ。

「水がなければ酒になるかもしれんが──……ああいや、何としても水にしてもらおう」
「ヴァルト様、私を見てとんでもなく不安げなお顔をなさいましたわね今。別に酔ったからと言って服を脱ぎ散らかしたりしませんわよ! というか水くらい私も一緒に」

 私は軽く憤慨しつつ椅子から立ち上がろうとしましたが、ひょいと肩を押し戻されました。

「さっきから顔が赤い。休憩しておけ」
「はっ、こ、これはその」

 体調が悪いわけではなくて、今の状況が妙に照れ臭いだけですの。と馬鹿正直に答えられるはずもなく、私は柄にもなく口ごもってしまいます。
 ここは大人しくヴァルト様のご厚意に甘えた方がよろしいのでしょうか。僅かながら一人で落ち着く時間も取れますし。

「……じゃ、じゃあお願いします」
「ああ」
「でもあの、早く戻って来てくださいまし」

 口を突いて出た言葉に、私は固まりました。勿論ヴァルト様も呆けていらっしゃいます。私は慌てて首を左右に振り、ついでに両手も振って発言を掻き消しました。

「はああ!! ヴァルト様の御身に何かあってはいけませんし! 鼻詰まりは嫌ですし! 何の他意もございませんわよ!?」
「分かった、分かったから声を落とせ」

 ヴァルト様は私を宥めてから、少々の困惑を露わにテーブルへと向かいました。途中、投げやりな仕草で後頭部を掻いていましたので、これはもう確実に困らせましたわ。
 ああ私ったら何を口走ったのでしょうか!? いつもあのような言葉で殿方を期待させているのかと、ヴァルト様に勘違いされてしまいますわ! そうなったら──よく分かりませんが何だか嫌です!

「うう……ただ少し心細かっただけで……」

 いくら婚約者探しに必死だったと言っても、私は決して誰にでもあんなこと──。


「──リシェル」


 一人でうんうんと唸っていたときでした。
 この幼子をあやすような甘やかな声。過去に耳が腐るほど聞きましたわね。
 そろりと顔を上げてみると、麗しい笑みを携えた殿方が、可憐な令嬢たちの輪から抜け出してきました。

「……まぁ。アランデル様」

 私のことをお仲間と一緒に面白おかしく扱き下ろして、ヴァルト様(私)の剣幕に怯えて泣きじゃくりながら公爵領に逃げ帰ってから、一切お見舞いにいらっしゃらなかったけれど、もう体調はよろしいのかしら。
 そんな言葉が飛び出しそうになりましたが、ぐっと堪えて私は笑みを浮かべました。

「お久しぶりでございます」

 いつも通りの笑みを見て安心したのか、アランデル様はあからさまにホッとしたお顔で歩み寄ってきます。

「驚いたよ、ヴァルト殿下と一緒に現れたから……具合が良くなったと教えてくれたら、僕が一緒に出席したのにな」
「あぁ、ごめんなさい。ですがアランデル様は引く手あまたですもの。私ばかり独占していては皆様に失礼でしょう?」

 ちらりと見遣った先には、私を鬱陶しそうに睨む令嬢たちがいました。第一王子を誑かしながら公子にも手を出すなんて、とでも思われていそうですわね。
 中でも一際敵意を剥き出しにしている少女──ヘリオッド子爵令嬢のイサベラは、私と目が合うなり愛らしい顔を盛大に歪めました。凄まじいですわ、あの子まだ十五歳ほどだった気がするのですけど。

「そう拗ねないでくれ、可愛い人。囲まれて大変だったんだ」
「ふふ、そうですか」
「僕は……貴女と踊りたいな、リシェル」

 拒まれることなど一つも想定せずに触れた手。
 私を見詰める甘美かつ冷ややかな目。
 それらを認めた瞬間、私はぞっと肌が粟立つのを感じたのでした。