美帆は空いているミーティングルームに案内した。普段は社内の人間が使っている場所で、集中して作業したい社員が一人で使うこともある。狭い部屋だが、椅子もあるし問題ない。近くには自販機もある。

「おたくの会社はほんまこういうのちゃんとしてんなぁ」

「そう、かもしれませんね。私は他の会社に勤めたことがないので分からないですけど……」

「じゃあ学校出てすぐにここに来たん?」

「はい。第一志望がここでした」

「それで受かったんか。すごいエリートやな」

 津川は椅子に座ると、ふと何か思いついたような表情を見せた。少し間を置いた後、美帆に尋ねた。

「……前に、ここの社長さんを見たんやけど」

「藤宮社長ですか?」

「秘書の人とよう一緒におるんな」

 質問の意図が分からない。なぜ突然社長のことを尋ねたのだろう。

「ええ……社長の第一秘書が青葉さんっていう男性です。あの二人は幼馴染らしいですから、仲も良いですよ。どうかしたんですか?」

「……いや、若い女社長やなと思って」

「狙っちゃ駄目ですからね。社長は常務の奥さんなんですよ。あの二人はおしどり夫婦なんですから」

「人妻なんか狙うわけないやろ。俺をなんやと思ってんねん」

「会うなり私に暴言を吐いた失礼な人です」

「うっ……」

 流石にそうくるとは思わなかったのか。津川は気まずそうに視線を泳がせてシュンとした。

「冗談です。もう怒ってませんよ」

「……ほんま?」

「でも、気になってはいました。どうして初対面の私にあんなこと言ったんです?」

「それは……」

 津川は再び視線を落とした。何か言いたくないことでもあるのだろうか。

 美帆はずっと気になっていた。あの時自分たちは初対面だった。お互いのことを知らないはずだ。それなのに津川は知ったような口ぶりだった。

 もし本当に初対面だったのなら、男漁りなんて言わないだろう。

「教えてください。じゃないとあの約束はなしです」

「実は────」

 観念したのか、津川はようやく口を開いた。

「……ごめん。ほんまは杉野サンのこと知っててん」

「えっ」

「取引先やったから、会社にも行ったことあった。だから、ずっと知っててん」

「でも、じゃあなんで……」

「……杉野サン、前に社員食堂で言われてたやろ。ああいう類の噂を、まあ……偶然聞いてん。それで……」

「……私のこと男漁り女だと思ったてことですか?」

「……ごめん」

 ────なるほど。そういうわけか……。

 ようやく納得した。どうりでおかしいと思っていたのだ。いくらなんでも見知らぬ他人に敵意を持たれるようなことはしていない。だが、そんな噂を聞いたのなら津川が自分のことを誤解しても不思議ではない。

 それでその後男と会っている自分を見て嫌な気分になったのだろう。

 だが、いきなりあれは酷い。

 津川は申し訳なさそうに項垂れている。まるで怒られている子供みたいだ。

 確かに、以前は本当にそう思っていたのだろう。だがいつか津川は自分に謝ってきた。その噂の誤解も解けたらしい。だから彼の態度が変わったのだ。

「そんなに落ち込まないでください」

「けど、嫌な奴やったやろ、俺」

「そうですね。しばらくは最低男だと思ってました」

「……た?」

「今は……そんなことないと思います」

「……ほんまに?」

「ちょっ……ちょっとだけですよ!  別に、悪い人じゃないなって思っただけです!」

 心底安心したような表情を浮かべて、津川は「そうか」とだけ言った。

 本当に変な人だ。最初の頃はあんなに挑発的だったのに、今は少年みたいな顔をする。人のことを馬鹿にする割に庇ったり、男漁りとかいうくせにデートに誘ったり。

「前に……私に言いましたよね。笑い方が完璧すぎるって。じゃあ、どういうふうに笑ったらいいんです?」

「別に、あの時はそう見えただけや。今はそんなこと思ってへんよ。大方、デートがおもんなかったんやろ」

 美帆は言葉に詰まった。当たっている。つまらないとは思っていないが、緊張していたのは確かだ。

「じゃあ津川さんとのご飯はどうでしょうね」

「そりゃ……」

「……悩まないでくださいよ」

「自分がハードル上げるからやろ。言っとくけど、おもんなくても文句言わんといてや。俺あんまりいい場所知らんし」

「面白くなったら帰ります」冗談めかして言うと、津川はムッとした顔をした。

「あのなあ」

「冗談ですよ。帰りません」

 困った顔をしている津川がなんだかおかしくなって笑ってしまった。

「そうそう、その顔」

「え?」

「そういう顔の方が可愛いと思うで」

 本当に、穏やかにさせてくれない人だ。そんなことを考えながら、津川の無邪気な笑顔に返事をすることを忘れてしまった。

 少し前までは「いけすかない最低男」だった。では、今はどうだろう?