とある企業の恋愛事情 -ある社長令嬢と家庭教師の場合-

 本堂が復職した翌日。早々に噂が広がったのか、出社した本堂は社員達の視線を浴びた。

 以前在籍していた時も目立っていたが、しばらく見かけない間にまさか合併した会社の代表になっているなどとは誰も思わなかったのだろう。

 本堂はもともと営業から聖の補佐役として異例の出世をしたが、社員達の反応はその時と同じだった。

 数年ぶりに本社に足を運んだ本堂は、一歩進むごとに視線を投げつけられてイラついた。

 足早にエントランスを抜けて、エレベーターのボタンを押す。乗る者が限られたエレベーターは、すぐに本堂を上の階へ案内した。

「常務取締役」などと仰々しい名前がついているが、実際の業務は前とあまり変わらない。代表取締役の補佐だ。

 本堂の仕事場は以前とは別のフロアへと移動した。以前藤宮正義元代表取締役が使用していたフロアが、新たな仕事場となった。

 だが、以前訪れた時とは内装が変わっていた。

 ゴテゴテした装飾の一切は取り払われていたし、趣味の悪い絵画や剥製もなくなっている。恐らく新しい代表取締役の意向だろう。

 それを見ながらその奥にいるであろう人物に早く会いたくて、歩くスピートを早めた。

 ドアを開けて真っ先に見えたのは、青葉の顔だった。思わず顔をしかめると、青葉はそんな本堂をたしなめた。

「お前なあ、残念なのはわかるがもうちょっとリアクションを考えてくれ」

「聖は?」

「はあ……どんだけ会いたいんだよ。聖は会社にはまだ来てない」

「どこにいるんだ。まだ家なのか」

「寄りたい場所があるって言ってたぞ」

 ────寄りたい場所……?

 数秒考えて、本堂は足の向きを変えた。先ほど通った道を真逆に進んで、エントランスすら抜けてビルの外に出る。

 考えられる場所は、一つしかなかった。

 ビルが立ち並ぶ通りを抜けていくと、オフィスビルの間に公園がある。以前聖と寄った場所だ。

 ベンチに座った彼女を見つけると、その光景に微笑んで真っ直ぐに聖の元へ向かった。隣に腰を下ろし、少し驚いた表情の聖の顔を覗き込むように見つめる。

「代表取締役が朝っぱらから業務怠慢か?」

「一度やってみたかったの」

 聖は悪びれるでもなくむしろ楽しそうに言った。今までは堂々とサボることなど出来なかったからか、ただぼうっと座っているだけなのに満足げな様子だ。

「お互い役職に就いて出社初日なのにね」

「お前が会社にいねえからだろ」

「はじめさんなら来るかと思って」

「そりゃあ、行くだろ。お前が誘ってるって分かりきってたからな」

 お互い五年ぶりにゆっくり話せるのに、深い話はしなかった。この空気感が心地よかったし、聖とは何も考えなくても、何も気にしなくても自然体でいられた。

「お前の親父は、どうしてんだ」

「はじめさんが心配してるの? 珍しいね」

「そんなんじゃねえよ。一緒の家にいるんだろ。心配してんのはお前のことだ」

「私、家を出たのよ」

「家を出た……そうか……は?」

「一人暮らししようと思って、マンションを買ったの」

 色々突っ込みたいことは山ほどあったが、どれか一つに絞ろうと本堂は頭を悩ませた。

 聖は今までずっと実家暮らしをしていたお嬢様だ。一人暮らしなんてしたこともなければ、食事を自分で作ったこともない。買い物のほとんどは執事の青葉が行なっている。そんな人間が一人暮らしなど────。

 無理ではないのか。言葉にはしなかったが、聖は分かったらしい。

「大丈夫よ、そりゃあ分からないことだらけだけど、料理くらいできるしお風呂だって沸かせるわよ」

「いや、そういう問題じゃねえ」

「炊飯器の使い方も覚えたし、洗濯機という便利なものが──」

「あー、もういい知ってる」

「ちゃんと聞いてよ。私色々出来るようになったんだから。俊介に手伝ってもらいながらだけど……」

「青葉は部屋に来たのか?」

「うん、俊介が色々買ってきてくれたから。引越しの手続きとかもほとんど俊介がやってくれて────」

「もういい」

 視界を塞ぐように聖の顔に近付いて、その肩を強引に引き寄せた。もっと他に口実はなかったのか、と本堂は不器用な自分を鼻で笑った。

 五年も離れていたなんて信じられないことだ。少し聖をからかってやる気でいたのに、彼女の嬉しそうな顔を見ていたらそんな気も失せた。

 まだ午前中のほんのり日が射す公園で、本堂と聖は離れた時間を埋めるように触れ合った。