とある企業の恋愛事情 -ある社長令嬢と家庭教師の場合-

 五年の月日は長いようであっという間だった。聖はまさしく光の如く時が過ぎたことを実感していた。

 この日、藤宮コーポレーションの定時株主総会のために、本社の大会議室には大勢の株主達と、藤宮正義代表取締役をはじめとした役人達が集まっていた。聖ももちろん参加していた。

 聖が株主総会に参加するのは初めてではない。だが、今日はいつもよりずっと緊張していた。

 総会は既に開式しており、俊介、正義とともに壇上に着席していた。監査役の長い話を静かに聞きながら、聖は机の下にある手の平をぎゅっと握りしめた。

 ────いよいよだ。

「私共監査役は、今事業年度の代表取締役の職務の執行に関して監査を行い、指摘すべき重要な事項が認められたため────」

「どういうことだ。そんな報告は受けていない」

 その言葉に反応した正義はすぐに監査役の言葉を遮った。

 聖は内心、引っかかった、と思いながら表情には出さずに隣に座る俊介に視線をやった。

 正義は苛立たしげに監査役を睨みつけた。監査役は若干怯えながら、手元の紙を見て答えた。

「で、ですから藤宮代表取締役において、定款に違反する重要な事項があったということで────」

「だから、それがなんだと言ってるんだ!」

 会場に正義の怒声が響いた。ビクついた監査役の代わりに、聖はすっと立ち上がった。

「社長、お静かに。ここは総会の場です」

「これが落ち着いてなどいられるか!」

 正義が激昂するのも当たり前だ。大勢の前で、監査役に「お前にまずいところが見つかったぞ」と言われているようなものなのだから。

 短絡的でプライドの高い正義が人前でそんなことを言われて冷静さを保てる訳がない──聖の思った通りだった。

「では私が監査役に代わってご説明しましょう」

 聖は立ち上がると、机の上に置かれたマイクの電源を入れた。手元の資料を見ながら、淡々と説明した。

「報告の詳細には、多数の株主の意向に反した業務を強行しようとするなど、取締役会を軽視した行動があったとあります。これに関して、藤宮代表取締役、何かご意見はありますか?」

「意味がわからん! 私の何が問題だったのだ!」

「報告には、数年にわたり総会での株主の意見を無視するような業務命令があった、とあります。同資料に記載されている数字と実際藤宮代表取締役が指示した内容を記した議事録を見ていただければ分かる通り、それは事実であります」

 聖は正義の方を一瞥することなく、手元の資料の内容に集中した。正義の反応は見ていなかったが、大体想像できた。

 馬鹿な──正義の方向からそんなセリフが聞こえてきた。

「この報告に虚偽がないことは明らかです。隣のページに記載されている業績報告書の結果をご覧ください」

 聖が告げると会場はざわつき始めた。

 正義は慌てて確認するようにその資料に目を走らせた。ブルブルと震えていたかと思うと、ぐしゃりと紙を握りしめる。聖は横目でそれを確認すると、再び視線を落とした。

「以上の結果から、大株主より藤宮代表取締役の解任を要求されています」

 実の父親の解任をこんなに淡々と告げる娘はいないかもしれない。

 聖は自分の行為が父親をどん底に突き落とすものだと理解していたが、それに対して微塵もかわいそうなどという気持ちは湧かなかった

 そこに立つ父親に対しこんなにも他人行事に話すのは、補佐としての役割だと意識すると同時に、長年自分を縛り続けてきた父親を突き放すためだった。

 予想もしていなかった事態なのだろう。正義は唇をかみしめ、顔を真っ赤にしていた。長年支配し続けてきた会社から、まさか自分が追い出されるとは思っていなかったのだろう。

 世襲制にこだわり続けてブランド化した自分の会社は、いつもでも自分のものだと疑わなかっただろうし、誰かが歯向かうことなんて想像もしなかったに違いない。

「株主のうち半数以上……約九十二%があなたの解雇に賛成しています。代表取締役からの解雇、取締役からの除名。以上が監査役からの報告、並びに総会からの要求です」

「馬鹿な……聖、お前まさか、私を騙したのか!?」

「言いがかりはよしてください。あなたが長年に渡ってやっていたことが露呈されただけではありませんか。社員をブランド化しようなどと愚かな行いから有能な社員を隅に追いやり自分に胡麻を擦る社員だけを取り立て、他社との競争のために無理難題を押し付けて会社の業績を悪化させた────解雇されて当然です。それがたとえ藤宮家の当主であっても」

「ふざけるな! 藤宮グループはずっと私が支えてきたのだ! 私の家の会社だ! 何が悪いんだ!?」

「会社は世に尽くしてこその会社です。あなたの持つブランド品ではありません」

「聖……跡取りにするとお前にも目をかけてやったのに、そのお前が私を──」

「あなたの勝手な押し付けには欠片も興味ありません。取締役がすべきことは従業員と会社のことを考えること、そして適切な判断です。跡取りが誰かなんて、最初から意味のないことだったんですよ」

「馬鹿な────」

 今まで優等生を演じていたせいだろう。正義は目の前にいる自身の娘がまるで別人のように思えたに違いない。

 聖は心の中で思っていたことをある程度ぶちまけることができて気持ちがすっきりした。

 ここにくるまで大変なことは山ほどあったが、結果的に正義一人の犠牲で会社が改善されるのなら安いものだ。今まで自分がやってきたことも無駄ではなかったのだと思えた。

 頭の中が真っ白になったのか、正義は呆然とその場に立ち竦んだ。
 
 聖はこの時とばかりに再びマイクを握った。

「また、株主様方には以前告知させて頂きました通り、本堂商事を吸収合併すことと相成りました。なお、屋号は今まで通り変更はございません」

「なんだと!?」

 ハッとした正義は再び聖に噛み付いた。動いた拍子に椅子を倒し、聖に掴みかかろうとしたのを周囲にいた警備員が取り押さえた。

 会場は正義の行動に騒然としていたが、聖はそれに目線をくれるでもなく、資料を読み上げた。

「先方との相談の結果、代表取締役にわたくし藤宮聖が就任致すこととなりました。微力ながら新陣容をもって総力を結集し、皆様のご期待に沿えますよう全力を尽くして参りますので、よろしくご高承の上今後ともなお一層のご支援を賜りますようお願い申し上げます」

 聖は深くお辞儀をした。正義は押さえつけられたまま、わなわなと肩を震わせている。

「聖! お前……っまさかあの男と連絡を取っていたのか!? あんな一般人とお前を結婚させられるわけないだろう! 藤宮を汚すつもりか!!」

 マイクもなしにがなりたてる正義の声は、耳障りに会議室に響いた。

 ふう、とため息を吐いて、聖はそれを一層冷徹な瞳で睨みつけた。

「まだそんなことを言っているんですか? 優秀な人に生まれも学歴も関係ありません。彼は以前あなたが私の補佐役に抜擢したほど優秀な人です」

「私は許さんぞ! 解任だけでは飽き足らず本堂とまで……っ」

「では、合併のご挨拶も兼ねて本堂商事代表、本堂一様、宜しくお願い致します」

 聖がそう言うと、会議室の中ほどの席から一人の男が立ち上がった。本堂一はニヤリと笑うと、壇上に向かって歩き始めた。

 正義は驚き、目を剥いて叫んだ。

「本堂! 貴様、なぜここにいる!?」

「ついに頭までおかしくなったのか。挨拶するって言っただろ」

「なんだと!?」

 本堂は正義を無視して、聖が渡したマイクを受け取った。

 ぐるりと振り返り、いつもとは違うキリッとした表情で挨拶を始めた。

「このたび常務取締役として就任することとなりました本堂一です。以前は藤宮聖代表取締役の補佐として働いていたのでご存知の方も多いと思います」

 本堂はチラリと正義に視線を向けた。明らかに挑発したような目は、正義の怒りの沸点を下げるのに十分な効力を発揮した。

 だが正義は何か言おうとはしていたが、もはやそれがただの文句にしかならないということがわかっていたのだろう。腐っても一企業の社長なのだ。自分に下された決定が覆らないことは、よくよく身に染みているはずだ。

「────以上をもちまして就任の挨拶とさせていただきます」

「本堂、貴様……」

「五年で勝てたな?」

 本堂は実家の会社を母体に自らの会社を作ったが、度重なる正義からの妨害工作に対応するため、ダミーの会社を数社用意していた。それは正義が知らない事実だ。だから正義は本堂はとっくに潰したと思い込んでいた。

 元々片手間で営んでいた白鳥の会社の業績を抜くのは簡単なことだった。白鳥さえ黙らせてしまえば、本堂は藤宮グループだけを相手にしていれば済んだ。

「何を、やった……藤宮グループは明治から続く企業だ。貴様ごときが肩を並べられるほど気安い存在ではない……」

「なんか勘違いしてねえか?」

 本堂は呆れ顔で窘めた。

「明治から続くつってるが、藤宮グループが会社の基盤を築き上げたのは戦後から高度経済成長期だ。何年も前のスピード感でやってるお前とコンピューターが発達した現代の五年の違い、分からねえか?」

 今更、正義は気付いたらしい。言葉を失った正義は呆然としながら本堂を見つめた。

「俺はお前が社長のままなら藤宮の下につくつもりはなかった。聖じゃなかったら合併する気なんかなかった」

 そんな、まさかと壊れたラジオのように同じ言葉を繰り返す。正義の目は虚ろだった。

 床に座り込み、人形のようになった自分の父親を見て、聖も良心が全く痛まないわけではない。だが、いい薬だと思った。今まで散々周囲の人間を軽視してきた報いだ。

 随分と久しぶりに会った本堂に、聖は微笑んだ。

「おかえり、はじめさん」

「ああ……」

 五年ぶりの再会だった。