連れて来られたのは病院だった。最近出来たばかりの大きな病院で、藤宮家が資金援助をしたところだ。

 病院に来た、という時点で漠然と感じていた不安が確信に変わった。心臓がどくどくと音を立て、喉が圧迫されているようだった。

 やがて個室の入り口に辿り着いた。青葉はゆっくりと引き戸を開けた。

 中に入ると、ベッドに横たわった聖がいた。彼女は眠っているようだった。

「聖……」

 高鳴っていた鼓動が少し落ち着いたのは、想像していたよりも聖の見た目が酷くなかったからだ。てっきり大怪我でもしたのかと思っていたが、彼女の体は一見、どこにも外傷がないように見える。

「……命に別状はない。今は疲れて眠ってるだけだ」

 その言葉を聞いてホッと胸をなでおろした。

 だが、青葉の表情は変わらない。難しそうな、いかにも不機嫌そうな顔をしていた。

「場所を変えよう。そこで話す」

「……分かった」

 本堂は眠る聖に近づいて、そっと頬に触れた。

 ────一体何があったんだ……?

 初めて、その髪を撫でた。
 
 聖に会ったらきっと抱きしめよう、そう思っていたのにどうしてこんなことになるのだろう。愛おしむようにその名前を呼んで、本堂は青葉に続いて病室を出た。

 ここじゃどこで誰が聞いているか分からないから、と病院から少し離れた公園まで来た。

 あえて人が少ない公園を選んだのか、青葉はキョロキョロとあたりを見回すと色の禿げたベンチに腰掛けた。

「お前にもいろいろ聞きたいことはあるけど……まず聖のことからだな」

 青葉は先ほどと変わらない表情で、躊躇いながらも話し始めた。

「聖は、ただ入院したんじゃない。海に落ちたんだ……」

「海?」

「こんなことお前に言ったらそれこそあいつに殴りかかりそうだけど……」

「どういうことだ」

「……俺が今からいうことは憶測だが、多分真実だ」

 本堂はゴクリと唾を飲み込んで、その先の言葉を待った。

「お前がいなくなってから少しして、聖が白鳥に誘われてクルージングに出掛けた。そこで、聖は海に落ちた」

「は……クルージングに行って、なんで海に落ちるんだよ。普通にしてりゃ落ちたりなんか……」

「……そうだ。普通にしてれば落ちることはない。聖は海上保安庁の巡視船艇に見つけられて助かったんだ。それでも水を結構飲みこんでいて、回復するのに時間が掛かったけどな」

「なんで、そんなことに……」

「俺はその場にいなかったから分からない。でも、病室に駆けつけた時に白鳥が言ってたんだ。『僕がシャワーを浴びてる間にベランダから落ちたんだ。酒でも飲んでいたんだろう』ってな」

「……なんだと」

「俺は見てないし、その場にいたわけじゃないからこれは憶測だ」

 憶測だ、そう言う割に青葉の言い方は断定しているように聞こえる。すでにその時点で、本堂は青葉が言わんとしていることが分かってしまった。

 青葉の拳は震えていた。単なる憶測ではないと、見てもいない本堂だって理解できた。

「聖は仮に自棄になっても酒なんか飲まない……聖は……っ」

「青葉、もういい。分かった………」

「聖は酔って落ちたんじゃない! 白鳥が嫌だから、あいつに抱かれたくなかったから飛び降りたんだ! ふざけんな!! 何が華族のお坊ちゃんだ……っ!」

 青葉は爪が食い込みそうなほど程拳を握りしめて、怒りに震えながら叫んだ。

 本堂も青葉ほど表には出さなかったが、父親が死んだ時以上に、静かな殺意が湧いた。心からそれ以外の一切の感情が消え失せた。

 青葉の言う通り、聖は白鳥に抱かれたくなくて飛び降りたのだろう。きっと、彼女は自分が身売りされたようで嫌だったに違いない。

 本堂は後からふつふつと悲しみが湧いてどうしようもなく後悔した。

 どうしてその場にいてやらなかったのだろう。自分がいたなら、黙って行かせたりはしなかった。少しの間とはいえ、聖から離れるべきではなかった。

 ようやく落ち着いたのか、青葉は顔を上げて謝った。

「悪かった、取り乱して……」

「いや、お前が怒るのも当然だ……」

「聖はお前をずっと待ってたんだ。まだ辞表を受理もしないで、ずっとお前の履歴書を持ってるんだよ。お前が帰って来ると思って、いつも窓の外を見てるんだ」

「……そうか」

「どうして出て行ったのかは今更聞かない。言わなくてもなんとなく分かるからな」

 青葉は本堂を見て困ったように笑った。それは、自分と同じ気持ちだからだろうか。青葉も聖のことが好きなはずだ。

「青葉、俺は……」

「いい、謝るな。俺は聖が笑ってくれればそれでいい。それに聖が必要としてるのはお前なんだ。聖を困らせるようなことはしないさ」

「……それでいいのか」

「いいわけじゃない。でも、あんな聖を見たら俺だって応援したくなる。それが聖にとって初めて────」

 青葉はふう、と笑いながら溜息を吐いた。

「それで、本堂は聖が好きなんだろ?」

「……っなんだよいきなり」

「そうだろ? 聖が好きで離れて、聖が好きすぎて戻って来たんだからな」

「うるせえな! いちいち言うな!」

「最初屋敷で聞いた時はお前の冗談だと思ってたけど、本当に好きだったなんてな……」

「あの時は、違った。復讐するために聖に近づいたんだ。でも、今は……」

 本気だ。自分の気持ちを確かめるように声に出した。

 あの時のように青葉をからかうための冗談などではない。本気で聖を手に入れたいと思った。だからこうして戻って来たのだ。

「どうするつもりなんだ? 聖は婚約してるし白鳥のバカもいる」

「奪い取る」

「は?」

「俺にできる方法は一つだ。あのタヌキオヤジと 成金馬鹿を打ち負かす」

「は? どう────いや、お前がか!?」

「くどいぞ」

「待て、お前頭良いから分かるだろう!? 藤宮だけじゃない、白鳥家まで敵に回して日本で生きていけるわけがない!!」

「知るかよ」

「いや、もちろん応援はするが……それは無茶だ。いくらお前でも……」

「じゃあ指をくわえて聖がまた飛び降りるのを待つのか? 聖が本当にお人形になるのを黙って見てるのかよ」

「それは……」

「俺は嫌だ。自分のやりたいようにするし、邪魔する奴は容赦しねえ。それが大企業だろうが元華族だろうが同じだ。聖といるためならなんだってする」

「本堂……お前」

 本堂の気持ちは以前よりも前向きなものだった。本当に今更だ。もっと早くこうしておくべきだった。

 過ぎた時は戻らない。しかし、復讐に費やした時間と労力は決して無駄にはならないだろう。

 まだ間に合うなら、聖に手を伸ばしたい。その手を取るかどうかは聖次第だが────。

「初めて会った時から変わった奴だとは思ってたが……やっぱり変わった奴だよ」

「そりゃどうも」

「お前だから、聖もきっと心を許せたんだろうな。お前みたいに破天荒な奴、俺は他に見たことがないよ」

 青葉は可笑しそうに笑った。

 確かに自分は破天荒だ。型破りなのはいつものことだし、今更気にしていない。自分がこうなったのは恐らく、復讐を考えだしてからだ。

 皮肉なものだ。藤宮に復讐するつもりでここに来たのに、聖を好きになって、聖が自分を気に入ったのはそのせいなんて。そしてまた藤宮を沈めようとしている。

 復讐のためにしていたことは、聖を手に入れるために必要なことだった。