一通りの料理が運ばれて、二人はしばらく夜景を眺めながら食事した。

 その間も白鳥は自慢げにクルーズ船の説明をしていて、正直早く帰って寝たかった。夜景は白鳥の退屈な話を紛らわせるただの《《つなぎ》》のようなものだった。

「あの……この船はいつ港に着くんですか」

 船に乗ってから既に数時間経過していた。普通の観光船ならもう港に着いていてもおかしくないが、そんな様子もなく、船は港から遠く離れている。

「え? この船は明日まで港に着かないよ」

「え!?」

 聖は白鳥の返事を聞いて愕然とした。

 さも当たり前のように言うが、そんなことをしたら家に帰れない。今更だが、そういうつもりで自分を誘ったのかと身構えた。

「君と僕は婚約者なんだし、誰も何も言わないさ」

 白鳥は部屋のキーと思しきものをチラつかせてニヤリと笑った。

「そ、それは困ります! 明日も仕事がありますし、父に了承を得ていないのに外泊は────」

「大丈夫、許可は取っておいたから」

 白鳥の言葉がさらに絶望へ追い込んだ。

 こんなのは身売りと同じだ。正義(あの人)は、家の未来のために自分の娘を売ったのだ。わずかかばかりの金と見栄のために、自分の娘を────。

 あまりにもショックすぎて目の前が真っ暗になった。

「そんなに怖がらないで、僕そんなに下手くそじゃないし。結構自信あるよ」

 ────嫌よ。

 覚悟していたつもりだったのに、こんなことで決心は簡単に揺らいだ。

 婚約を決めた時から、こうなることは予測出来たことだった。なのにどうしても受け入れられないのは、自分が子供だからだろうか。

 そうではない。愛してもいない人間と身体を合わせることなんて出来るわけがなかった。「藤宮のお人形」なのに、そう出来ない。

 ふっと、頭の中に本堂を思い出した。

 もしも、抱きしめてくれるのが彼なら。口付けてくれるのが彼なら。愛してくれるのが彼なら────どんなによかっただろう。

 そんなことはあり得ないのに、気を紛らわせたいのかそんなことばかり考えてしまう。

 白鳥がすることを全て本堂だと思い込めば、少しは苦痛も和らぐだろうか。身体を蹂躙される悲しみも、快楽に変わるのだろうか。

 虚しいだけだ。そんなことをしても。

 本当に触れて欲しい人はここにはいない。本堂は、そんなことをしたりしない。自分を最も愛するはずのない人間が、自分を抱くことなんてありはしない。

「行こうか?」

 死刑宣告のようなその言葉に、聖は従うしかなかった。

 白鳥はよくこの部屋に来るのだろう。慣れた手つきでカードキーをかざし、中へ入るとまた彼好みの派手な装飾の内装が見えた。

 部屋の中に入ると、彼は部屋に備え付けられたワインセラーから一本のワインを取り出した。

「飲む?」

「いえ……」

 わざわざ酒を勧めるのは白鳥の優しさだろうか。それとも酔ってどうにかしてやろうという欲望なのだろうか。どちらにしろ、変わらない。

 聖の心臓は潰されそうなほど高鳴っていた。胃がキリキリと痛んで、先ほどの食事が逆流してきそうだ。白鳥が少しでも動くと体が反応してしまって、これから自分がどうなるのか不安だった。

「先にシャワー浴びてくるからゆっくりしてなよ」

「はい……」

 機械的にそう答えると、白鳥はシャワールームに消えた。

 聖はすぐに抜け出すことを考えた。だが、船の中では逃げ場がない。俊介に迎えにきてと言いたいが、ヘリを飛ばさないとここではどうにもならない。

 絶望的な状況だというのに、抵抗をやめられなかった。

 正義の目を本堂から逸らさせるためにしたことだ。だから受け入れなければならない。自分がたとえ誰かのものになろうと、それで本堂が平穏に暮らせるならそれでいい────そう思っていた。

「藤宮」に睨まれて、普通に生きていくことは出来ないだろうから。

 本堂のことを思うなら、彼を好きになってはいけなかった。なのにまだ、自分は彼のことを想っている。こんなことを考えることすら罪で、いけないことだというのに。
 
 本堂にいて欲しいからこうなることを選んだのに、なぜ今彼はいないのだろう。今彼はどこにいるのだろう。まだ自分のことを憎んでいるだろうか。もう聞くこともできない。

 バルコニーへ出ると、少し冷たい風が頬に当たる。
 
 真っ黒な海が下にあって、船の明かりがところどころ海面に反射していた。底の見えない海は、暗くてまるで自分の心の中のようだ。

 港は少し遠い。遠くにぼんやりと明かりが見えた。聖は手摺りから身を乗り出し、心静かに海を見つめた。

 たとえお人形になっても、心だけは思い通りにはならない。愛する人間はせめて自分で選びたかった。

 けれど、もう本堂がいないならこの世界で生きる意味もない。

「自分のために……」

 聖は目を閉じ、本堂の姿を思い浮かべた。そうすると不思議と、悲しくても笑顔になれた。

 それは諦めではなく、小さな勇気だった