どうして────。

 掠れた声で、聖は呟いた。

 まるで幻でも見るように本堂の目をじっと見つめた。微かに涙で濡れた瞳が揺れていた。

「……そんなの、俺だって知るかよ」

 本堂は聖と、そして自分に向けて言った。彼女の境遇を気の毒だと、同情したのかもしれない。

 聖を見ていたら、いつの間にかあれだけ自分を支配していた憎しみが消えかけていた。まるで彼女の優しい笑顔に打ち消されたように。

 箱入りな聖が危なっかくて、目が離せなくなっていたのだ。

 自分の想像とは違う。純粋で、真っ直ぐ人を見る真摯な女性だったから────。

 以前聖はホームレスの男性を見かけた時に言っていた。強い意志がないとお金に負けるだけだ、と。それはきっと自分自身のことなのだろう。だから自分は、聖を憎みながら尊敬し、憧れてもいた。

「……私が必要とされているのは藤宮の跡取りだからよ。あなたの言うようなわがままは許されない」

「お前がお前のために生きて何の不都合があるんだよ。誰だって自分のために生きるんだ」

「違う……私は他人のために生まれてきたの。そうすることが藤宮グループの跡取りの役目で、それが必要なことなのよ」

「聖!」

 頑なな聖にカッとして、窘めるように、叱るようにその名前を呼んだ。聖の小さな肩を掴んだ。

「もう自分のためだけに生きろ!」

 本堂が叫ぶと、聖の瞳から大粒の涙がこぼれた。

 どうして自分でもこんなふうに聖を助けようとしているか分からない。だが、放っておけなかった。

「そんなの……どうしたらいいか分からない……」

「簡単だろ。自分の思う通りにしたらいい。食いたいものも行きたい場所も全部自分で決めるんだ」

「私が……?」

「そうだ。出来ねえって悩むくらいなら出来るように行動しろ。お前には手も足もついてるだろ」

「だって、私は一人じゃ────」

 何も出来ない、と言おうとした聖の言葉に、本堂は言葉を被せた。

「スーパーくらいなら、俺が付いて行ってやるよ」

「はじめさん………」

 聖の瞳がまた揺れた。そこにある感情が見えたことで、心から安堵を覚えた。

 少し前のキツい上司の役を演じていた聖は、らしくなくて浮いていた。今のように笑って、部下を褒めている方が似合っていた。それが本当の彼女だからだろう。

 優しい瞳に見つめられて、本堂はなぜだか胸が苦しくなった。嬉しいのに、聖に見つめられると言葉に詰まる。

 聖は歳下で、七つも歳が離れている。そんなことあるはずがない。なのに、今掴んでいる聖の肩を引き寄せてしまいたくなった。

「聖────」

 不意に執務室の扉が開いた。そこにいたのは藤宮正義だった。

「何をしている?」

 正義は本堂と聖を見るなり、不審そうに眉をしかめた。

 そう言われて本堂はようやく気付いたが遅かった。

 自分の手は聖の両肩をしっかりと掴んでいる。どう見ても誤解されるシチュエーションだ。

 だが、本堂が手をどけようとする前に聖がその手を振り払った。

「本堂、私を説得したいのもわかるけど、もう決定したことは覆らないわ」

 突然聖が喋り始めて、本堂は一瞬目を点にした。

「多数決で決まったし、もう先方にも資料を提出してるの。今更変えようったって無理よ────ごめんなさい、お父様。先日の会議の件で揉めていたの」

「会議?」

「ええ。ホラ、次の企画でうちの会社のコマーシャルを流すことになったでしょう? 内容も決まってテレビ局からも許可を頂いたのに本堂が今更やめようなんて言うものだから……」

 聖は呆れたように本堂を見た。

 そこでようやく聖がやらんとしていることが分かった。

「悪いがどう考えたって賛成はできない」

 猿芝居に乗っかると、聖は本物らしく見えるよう更にセリフを続けた。

「あなた一個人の意見なんて聞いてないわ。どうしても覆したいなら各部署から意見を集めて。どちらにしろ今からやり直しなんて出来ないわ。無駄よ」

 聖は厳しい瞳で本堂を批判した。

 聖と本堂のやり取りを見て正義は安心したのか、やや表情を緩めた。

「それでお父様、用事があったのでは?」

 聖はけろっと忘れたように正義に笑顔を向けた。まるで先ほどのことなど大したことない、とアピールするように。

「いや、まだ帰っていないと聞いたのでな。私はもう帰るからお前も一緒に食事でもして帰らないか?」

「ええ、分かったわ。すぐに向かうからエントランスで待っていて」

 正義が外へ出ると、冷や汗が一気に吹き出た。聖と本堂は共に大きく溜息を吐いた。
 
 なんとか誤魔化せたようだが、怪しく思われたかもしれない。こんなこと、正義が許すわけがなかった。

 心配している本堂の心情を見抜いたのか、宥めるように聖が言った。

「大丈夫、はじめさん」

「え?」

「大丈夫よ」

 聖の目が優しく弧を描いた。

 だが、どこか悲しそうな瞳に胸に抱いた一抹の不安は消えなかった。

 鞄を持って執務室から出て行く聖を、ただ見ていることしかできなかった。

 聖の足取りは決して軽やかなものではなかったのに。