翌日、出勤した本堂は聖と話すタイミングを伺った。

 聖は前にもまして忙しく、自ら仕事を増やしているように見えた。

 それに、やつれた。昼休憩の時間になっても食事をしているところを見たことがない。朝は俊介が朝食を食べるのを見届けているらしいが、それでも少食でほとんど残しているという。

 執務室のドアを開けると、また同じ光景が本堂を出迎えた。

 視線を上げることもなく、聖は手元の紙を見ながら以前とは違うキツイ物言いで言葉少なに本堂を叱った。

「ノックは」

「……俺がノックなんてする柄か?」

「上司の部屋に入るのにノックもしない部下がどこにいるの。以後気を付けなさい」

 以前も、ノックなんてしなかった。それでも聖は、「どうしたの? はじめさん」────そう言って笑顔で尋ねてくれた。

 今の聖を見ていると、そんなやりとりは遠い昔のことのように思えた。

「話がある」

「急ぎじゃないなら後にして。忙しいの」

「急ぎじゃねえが今聞いて欲しい」

「悪いけどあなたがそこで突っ立って喋ってる時間すら私には惜しいの。仕事の邪魔をするなら出ていって」

 吐き捨てるように言うと聖は本堂を睨みつけた。

 かつて自分に向けてくれていた優しい声音。柔らかい笑みは、同じ人物とは思えないほど冷たく凍りついていた。

「……嫌だ」

「本堂、これは命令よ。今すぐここから出て行きなさい」

「お前の命令なら聞いてもいい。でも今は聞きたくねえ」

 本堂はつかつかと近付くと、椅子に座った聖の腕を掴んで引っ張った。そのまま聖を引っ張って外に連れて行く。

「ちょっと! どこに連れていくのよ!?」

 喚く聖を無視して、本社ビルの中腹に造られた中庭に向かった。ここは休憩時間はほとんど人がいない。いたとしても、聖と自分を見て出て行くだろう。

 案の定、中には人がいなかった。ベンチに彼女を座らせて、自分もその横に腰掛けた。

「こんなところまで連れてきて下らない用事だったら減給するわよ」

「とんだパワハラ発言だな」

「誰がそうさせてるのよ」

「この間は悪かった。俺が言いすぎた」

 本堂は真っ直ぐ聖の目を見つめて、自分の精一杯の気持ちを伝えた。

 だが、聖は眉をしかめるだけで、呆れたように言った。 

「とても謝る態度には見えないわ。真剣に謝るときは頭を四十五度下げるって習わなかった?」

 ベンチに座って腕を組む姿は確かに謝るような態度ではない。

 自分が謝ったというだけでも相当に凄いことなのだが、今の聖には通用しなかったようだ。

「俺がそんなことすると思うか?」

「謝罪の意味わかってる?」

「俺は俺だ。お前も……お前だろ」

「当たり前のこと言わないで。そんなこと言うために呼んだのなら────」

「聖……ちゃんと聞いてくれ。この間のは俺の失言だ。イライラしててついお前にあんなこと言ったが────」

「イライラしていたからつい本音が口から飛び出たわけね。そんなこと分かってるわ。あなたに言われなくたって私は自分の務めを果たすつもりですからご心配なく」

「そうじゃねえ! 俺は……」

  どう言えば良いか分からずまごついた。

 復讐のことなんて告げたら、それこそ聖を追い詰めてしまうし、安っぽい慰めは聖には効かない。

「無理に謝らなくて結構よ。思ってもいないのにそんなこと言わないで」

「違う、聖。そうじゃねえ。俺はただ……」

「もう、いいわ」

 深い溜息を一つ吐いて、聖は立ち上がった。

「この後会議があるの。悪いけどこんなことしてる時間はないのよ」

「聖、俺は────」

「その、聖って言うのも止めなさい。あなたは部下よ」

 聖は一度も振り返ることなくそこから立ち去った。
 
 残された本堂は深い溜息を吐いて、髪をぐしゃぐしゃと掻き乱した。

 言い訳をするのは上手い方だと思っていたが、どうしてこんな時こそそういうことが言えないのだろう。いや、建前だけで言ってもきっと聖には通用しなかったに違いない。

 頭から聖の表情が離れなかった。あんな顔をする人間じゃなかった。

 家庭教師を始めた頃、高飛車な我が儘お嬢様だと思っていた聖が思っていたよりもずっと優しい表情をする少女で少し安心したことを思い出した。
 
 くるくる変わる表情は喋るたびに変わって、聖の屈託のない笑顔に、知らないうちに憎しみを消したくなっていた。

 本当に、どうしてあんなことを言ってしまったのだろう。どうして聖を憎もうなどと思ったのか。

 仕方なく立ち上がり、本堂は中庭を後にした。