突然の人事異動から数週間が経った。あれから特に問題が起きたという報告は届いていない。

 本堂は何度か気になって他の部署を覗いて見たが、問題はないようだったし、通達に載っていた社員らも不都合なさそうだ。

 降格された社員達は不満だろうが、それよりも昇進した社員達が結果を出したため、それを言い出せなくなったのだろう。

 そういう意味で、今回の人事異動は成功したと言えた。



「本堂、十六時からXビルで会議がある。俺は旦那様に呼び出されてそっちに行かなきゃならないからお前が聖と一緒に行ってくれ」

 ある日の午後、突然青葉にそう言われた。

 本堂は意外な頼み事に驚いた。まさか青葉が自分の仕事を任せるとは思わなかったのだ。しかも、聖のことを。

「珍しいこともあるもんだな」

「旦那様の秘書が体調不良で欠勤してるんだ。その代打で行かなくちゃならない。できるだろ」

「誰に言ってんだ」

「間違っても聖に変なことすんなよ」

「さあな」

「したら帰ってきた時お前の席はないと思え」

 ギロリと本堂を睨むと、青葉は鞄を持って部屋を出て行った。

 聖と同行するのは基本的に秘書の青葉が担当していた。スケジュールくらいなら本堂だって把握していたが、慣れている青葉の方が聖も安心できるだろう。

 青葉が残したメモを記憶して、本堂は聖の部屋に向かった。

「聖、行くぞ。会議があるんだろ」

「え? もう出るの? 会議までまだ二時間くらい余裕あるけど……」

「たまには、外をぶらつくのもいいんじゃねえか?」

 言わんとしていることが分かったのだろう。聖は笑うと、すぐに荷物をまとめ始めた。

 Xビルは本社のすぐ近くで歩いてでも行ける距離にあった。

 青葉なら恐らくそれでも車で行くだろう。本堂からしてみればその方が面倒だったので、歩いて行くことを提案すると聖は快諾した。

 オフィスビルが立ち並ぶ通りを歩く。聖は歩いて目的地まで行くことなんてないのだろう。周りをキョロキョロ見ながら歩いていた。

「よそ見してると転ぶぞ」

「分かってはいるんだけどね。車から見るのと違って新鮮だから……」

「まさかとは思うが、目的地まで歩いで移動したことがねえとか言うんじゃねえよな」

「そのまさかよ。俊介が知ったら怒り狂うでしょうね」

「ま、俺は告げ口するつもりはねえから安心しろ」

「私も、怒られたくはないからね」
 
 聖はいたずらに微笑んだ。

 会社の近辺はビルが多いが、中には人が休めるような公園も多数点在している。

 大きな川沿いに芝地と街灯、ベンチもある。

 高層ビルや東京タワーも見えるスポットだからか、それらの景色を見にきた人々も少なくない。

 本堂は近くに停まっていた移動販売の車で二人分のコーヒーを買うと、近くの芝生の上に座り込んだ。

 お嬢様の聖は、きっと芝生の上に座ることなんてないのだろう。本堂に続いて戸惑いがちにそこに腰を下ろした。

「俊介に知られたら大目玉ね」

「バレなきゃ平気なんだろ」

「こんなところに座って休憩してるなんて知られたらそれこそ一時間でも二時間でも説教コースよ」

「面倒くせえ家だな」

「……そうね、はじめさんならきっと面白くねえって言うでしょうね」

「お前だってそう思ってるんだろ?」

 聖は口を噤んで困ったように笑った。肯定したくても出来ないのは、そうすることで自分の生き方を否定することになるからなのか。

 川の向こう────向こう岸を見つめて、聖はそこから見える景色を少しの間眺めていた。

 柔らかい草の香りがした。ここは風が吹き抜けて気持ちいい場所だった。川が近いからか潮の香りもするが、それも新鮮だ。

 聖は会社にいるときよりも幾分かリラックスしている様子だった。

「異動した社員、結構喜んでるみたいだな」

「……そうね。まだ改善点はあるけど、応急処置にはなったと思う」

「どうして、いきなり人事異動なんてしたんだ。普通は年に一度で来期まではやらないはずだろ」

 成功したからこそ良かったが、わざわざ何度もやるものではない。それでも聖が今やらなければならないと思ったのには理由があるはずだ。

 本堂が尋ねると、聖は神妙な面持ちで答えた。

「暗い顔で、通勤している社員がいたら……何かあったのかなって思わない?」

「は?」

「毎日楽しくなさそうに仕事して、自分の気持ちを押し殺しながら仕事するなんて、そんなのしんどいでしょう?」

「……だから、人事異動させたのか?」

「そうよ。それが私の権限で、役割だから」

「別に、今やらなきゃならねぇことじゃなかっただろ」

「今やる必要があったの。規則に則って無駄に時間を浪費したって何の意味もないわ。一刻も早く改善して、社員のストレスが減って業績も上がれば言うことないでしょう?」

 だから今の時期にわざわざあんなことをしたと言うのか。うだつの上がらない平社員のストレスを減らすために、わざわざ。

 本堂はその返答に苛立ったが、すぐに心の中で否定する答えが浮かんだ。

 違うのだ。聖はそう思っていない。会議に来たあの上司たちを見て、部下の苦労を悟ったから意図的に調べたのだ。だから自分自身で調べて現場の現状を把握しようとした。

 何も言えずにいた本堂に、聖は優しく笑った。

「私はこんなポジションだから嫌なことも言われるけど……父が気がつかないようなことに気が付いて、みんなが楽しく仕事できるようにしたいの。それが私の立場だし、私しかできないことだから」

「お前……」

「これでも、一応次期社長だから」

 馬鹿馬鹿しくて、本堂は笑いたくなった。聖をではない。自分自身を、だ。

 聖がそう考えるのは教育の賜物なのか、それとも聖自身が優しいからかは、分からない。ただ、聖は人の痛みを理解した。だから行動した。

 巣から落ちたたった一羽の雛すら見捨てない。それがどんなに惨めなものだったとしても────。

 青葉が言うことなんて一つも理解できなかった。聖の何がいいかなんて分かりたくもないことだ。

 なのに、青葉がどうしても聖のそばにいたいとこだわる理由が──少しだけ分かってしまった。

 もし自分が普通の社員だったならば、きっと聖を上司にしたいと思っただろう。聖のために働きたいと────普通の社員だったなら。