桜が散り始めた頃、本社では部署の配置換えが行われて、慌ただしい日々が続いた。

 この四月から本堂の職場は海外事業部オフィスではなくなった。それより高層階にある、「聖とその取り巻き達」専用のオフィスだ。

 だが、変わったことは仕事内容ぐらいだ。それも、本堂にとっては今までの仕事より楽なものが多かった。

 だから今回の異動で大変な思いをしているのは「あの二人」ぐらいのものだ。

「あの二人」のうちの一人────聖は入社してしばらく、正義の元で会社の仕事を把握するのに時間を費やしていた。

 表面上の役職名は補佐としているが、仕事内容は代表取締役の補佐と監督業務だ。つまり実質専務の仕事に近い。

 ある程度は知っていたらしいが、藤宮コーポレーションには相当な数の部署がある。一日や二日ではさすがの聖も覚えられるわけがない。

 聖は毎日のように資料と睨めっこする日々が続いた。勿論、正義の仕事に同行しながら。

「聖、もう昼過ぎだぞ。そろそろ休憩したらどうだ?」

 隣にある聖の執務室から青葉の声が薄ら聞こえてくる。なかなかデスクから離れようとしない聖に青葉は何度も休憩を促すが、返事はいつも決まっている。

「うん……もう少しで片付くから。俊介と本堂先生は先にご飯食べて」

「そんなわけにいくか。聖が休むまで俺もここで仕事するからな」

 二人の押し問答を聞くのも面倒になってきた。本堂は席を立つと聖の執務室に繋がる扉をノックもせずに開けた。

「俺はとっとと飯食いに行くからな」

「……本堂、お前本当に自由な奴だな」

「昼休憩の時間だろ。なんか都合でも悪いのか」

「好きにしろ。俺は聖を待つ」

「分かった。私も休むから俊介、もう行って」

「……分かった。じゃあ、俺は外で食べて来るから、何かあったら連絡してくれ」

 俊介がやっと部屋から退出すると、聖は溜息をついた。元専属執事とはいえ、聖もあの過保護っぷりには疲れるようだ。

 しかし聖は休むと言ったものの、まだ机から離れる気配がない。

「飯、行かねえのか?」

「俊介には悪いけどそんな余裕はないの。やる事は山積みだし、一秒でも惜しいくらい。ここ、家と違ってコーヒーメーカーが近くにあるから自分で飲み物くらいは作れるし大丈夫よ」

「まぁ、倒れて迷惑はかけんなよ」

「ありがとう、そうならないように努力する」

 聖が再び仕事を始めたのを見て、本堂は部屋を退出した。

 聖が補佐として就任してからというもの、連日持ち込まれる書類は膨大な数だ。入社したばかりの聖が処理するにはかなり時間がかかる。彼女の言う通り、飯なんて食べている場合ではない。

 本堂も手伝ってはいたが、この業務は聖が確認することに意味がある。最終的に判子を押すのは聖だからできることは限られる。
 
 聖は毎日毎日仕事と勉強に追われて、前よりずっと忙しくなっているようだった。

 

 一階のロビーに降りると、ふと視線を感じた。以前海外事業部で一緒に働いていた社員だ。他にもいくつか。

 おそらく気になるのだろう。あんなに失敗続きだった聖の家庭教師から成功者が出たのだから。しかし羨望の視線ばかりではない。

 聖が就任してから、本堂が予想した通り社内では聖の入社を喜ぶ声と反対する声とで意見が二分した。

 いくら藤宮家が世襲制といっても、大学を卒業したばかりの娘にいきなり補佐を任せたのだ。非難する声が上がっても仕方のないことだった。おいしいポジションをいきなり掻っ攫った聖に、影で嫌味を言うものもいる。

 賛成派はとにかくミーハーで、聖が出社すると騒ぎ立ててゴマをすった。

 年若くして補佐に就任した聖をカリスマ的な存在だと羨望の目で見つめ、彼女を持ち上げたが、聖はそんなもの嬉しいともなんとも思っていないようだ。

 会社のエントランスで掴まるとなかなか離してもらえなくて、俊介が助け舟を出しているところをよく見かけた。

 それもあってか、聖は一度出社すると用事がない限りなかなか外に出なかった。

 与えられたフロアには全て揃っている。聖の執務室と、青葉と本堂が控える秘書室、トイレ、シャワールーム、仮眠室など。数日泊まることも苦にならないレベルだ。恐らく正義が用意させたのだろう。

 飲みたいものがあれば屋敷にいる時のように青葉が用意していたから、聖自ら買いに出る必要もなかった。

 整った設備のおかげで聖は遅くまで仕事するのが当たり前になっていた。