ひとつ大きなため息をついてリビングのドアを開けると、黒澤くんが
制服姿でソファに座り、ゲームをしていた。黒澤くんは私に気付いて
後ろを向き、お邪魔してまーす、と一声発するとまたテレビ画面に視線を
戻した。
ゲームしてるなら放っておいてもいいか、とも思ったけど、とりあえず
お茶くらい出しておこうと、私はキッチンに入りお湯を沸かしてお茶の
準備を始めた。
しばらくして『うわー!』という声が聞こえて、黒澤くんがゲームで
負けたのがわかった。私はソファに座りなおす黒澤くんから見えない
ようにコンロの前から離れずにいた。
戸棚を開けたらあの日と同じアールグレイしかなくて、私は仕方なく
ティーポットにお湯を入れてその中にアールグレイの葉を落とした。
「莉奈さんとカナって、あんまり似てないよね」
紅茶をテーブルに置いたとき、黒澤くんがカナがよく莉奈さんの話する
んだよね、といった。1人でお茶飲むのも寂しいから莉奈さん話し相手に
なってよ、とくったくなく笑う黒澤くんに引きずられるように私は隣りに
座った。ある意味第一印象は正しくて、初めて話をするとは思えないほど
人懐っこい黒澤くんとの会話はとぎれることなく続いた。
もちろん彼に対する警戒を解いたわけではないし、私の中のサイレンは
今でも鳴り響いている。その証拠とでもいうべきか、私は黒澤くんとなか
なか目を合わせることができなかった。
洗い終わった紅茶のカップとお皿を拭いて片付けようとしていたら、
ソファに座っていたはずの黒澤くんがカウンターキッチンの向こう側に
立っていて驚いた。どうしたの、と私がいうと返ってきた声のトーンが
カナというときのそれとは全然違って、したたかさというもうひとつの
彼に対する第一印象が頭に浮かんだ。
「莉奈さんてさー、俺と目合わせてくれないよね。もしかして俺って
嫌われてる?それともー」
カウンターにひじをついている黒澤くんの目は笑ってない。かかわらない
のが一番いい。こんなときに限って、私の直感は当たるんだ。
「それとも、その逆?」
その言葉を聞いた瞬間、私の手からカップが滑り落ちて、それは床で砕け
散った。慌てて破片を拾ったらうっかり右手の中指を切ってしまった。
危ないから触っちゃだめだよ、といって黒澤くんがいつのまにか側に来て
キッチンに出ていたふきんで破片を覆い、私の指から血が出ているのが
わかると彼はためらいもなくその指をなめた。
どうして黒澤くんと目を合わせられなかったのかがやっとわかった。
一度目が合ってしまったら、きっともうそらすことはできない。
そう思ったからだ。でも、もう遅い。
私の指をなめている黒澤くんと目が合ったとき、私は確信した。
彼はカナとのキスを私に見せつけた時と同じ目をしていた。あの時私が
感じていた警告はこれだったのだ。
私の傷ついた指先から黒澤くんの唇が離れて、今度は彼の指先が私の
髪を梳いた。その手を振りほどかないのがスイッチとなって、私たちは
唇を重ねた。どれくらいの時間があったのかはわからないけど、妹が
玄関のドアを開ける音を聞くまでの間、私たちはずっとキスを続けて
いた。まるで人間の器官が唇と舌しか存在しないかのように。
私は初めて、他人の舌から自分の血の味を知った。

