「桐子ちゃんの所へは? この後行くのかい」

「呼び出されてます。ただ以前真に受けて駆けつけたときに〝私の芸術の邪魔をするな〟と家の外に締め出されたことがあって。真冬ですよ。二時間扉の前で律儀に待っていた俺も俺ですが、なんだいたの、と戸を開いた彼女の顔を二度と忘れることはないでしょうね。下手したら凍死だ。そっから素直に言うことを聞くのが馬鹿らしくなりました」
「まるで通い夫だね」

(じき)に終わると思うと清々する」


 隣の影が動いた。電子工学について語るときはあんなにも自信と熱意に満ちているのに、その気配は明らかに、年端もいかない若造の戯言に狼狽した初老の人間だった。


「ごめんね」

「なんで教授が謝るんです」
「こんな時、どんな声をかけてやればいいのかがわからない。今まで電子装置しかまともに眺めてこなかったから」
「貴方が人と上手く関われない理由で電子工学を引き合いに出すなら、俺もやがて三橋教授みたく寛容な方になれるんでしょうか」

「奮闘することに意味があるんだよ。諦めると可能性も見出せない」


 ふいに、教授が入り口前のテーブルに置いた書店の手提げ袋へ誘われる様に足を進めた。袋の中を覗いている様子を振り向かずに背中で感じながら、首を下げる。


「君も、曲がりなりにも青さに足掻く青年でほっとした」

「…気休め程度にしかならなかった。参考書とは名ばかりの退屈凌ぎだ、罹患者遺族の体験談なんて明け透けなお涙頂戴のドキュメンタリーを文字に起こしただけの。虫唾が走る、道端の側溝に万札寄付した方がよっぽど建設的でしたね」
「青磁くん」
「記録をしようと思って」
「記録?」

「ええ。彼女の診断を受けないという意志が固いなら個人でやる他ないと思って。創作に重きを置く余り自分の機微にすら疎い女です、発症日はおろか痣を視認した日すら定かではない。そこで構内の図書館で読んだ文献や体験談を元に症状から逆算して潜伏期間まで叩き出せるかと目論んでみましたが、さすが希少疾患。一筋縄ではいきませんね。

 ただ俺が見たところ彼女は発症一ヶ月、って所でしょう。痣もまだ現状では一箇所だ。あくまで目安ですが、初期症状や特徴を記録に残すことで傾向と対策を練ります。自己流にはなるが研究者とは別の見解から実施した見聞は後世に語り継げるかも」


 研究の合間を縫って可視化出来るグラフでのファイルも先日作っておいた。まだ手をつけてはいないが、桐子のもとに足を運ぶ度そこに記載する項目は今後増えていくだろう。


「…随分機械的だね」
「桐子のためですよ、とでも言えば納得しましたか。残念ながら自分のためです」

 教授の視線を頬に感じる。敢えて視線は合わせないまま、頭を下げてその横をすり抜けた。

人間らしい(・・・・・)でしょう」