今更思い起こしても何の意味もないことだ。
ふいにスマホがバイブして、上着の内ポケットに入れていたそれを取る。〝三橋教授〟の文字を視認すれば当たり前に口にした。
「はい。花江です」
街中を歩きつつ、その単語を聞いただけで通行人が一歩引く。そのままであれば俺の横を通りすがる予定だった女性が、一瞬困ったように足をもたつかせて少し離れた場所に逸れた。
鼻で笑ってやれば、受話器の向こうからため息が聞こえてくる。
《…青磁くん、外で花江名乗らなくていいよ? 立場悪くなるでしょ》
「全裸で歩きでもすれば周囲安心しますかね」
《それ以前に捕まるね》
「伝染リスクのない事実が提唱されていてもこの様です。立場がどうだか知りませんが物怖じや躊躇などしません。俺の恋人に顔向けができない」
《桐子ちゃんがどうかしたのか?》
キャッチが入る。それは噂をすれば桐子からで、「からあげちゃん 炭酸飲料 プリン(※絶対にプッチン)」というまたも平穏な買い物メモだった。
「花餌だそうです」
今度は、受話器の向こうで空気が動くのを感じた。平日昼間の街は相変わらず賑やかで騒々しい。固く閉ざした街路樹の桜の蕾が、口を噤んでいる相手の口元と重なった。
《…そうか》
「まさか身内から出るとは。正直自分も驚きました」
《診断を受けたのか》
「受診したら一躍人気者でしょうね、残念ながら彼女は画家だ。一分一秒も時間が惜しいので病院のモルモットになるのだけはごめんだそうで。そもそも行ったところで延命治療が確立されてる訳でもありませんし、自己判断です。ただあれは素人が見ても明らかに打ち身が要因ではありません」
《青磁くん、きみは時に険のある話し方をするけれど、それはあまり褒められたものではないよ。私は知っているけれどね、きみの感情に乱れが生じた時早口になってその表情がいつにも増して曇ること》
「…ご用件は」
本屋で買った花餌にまつわる論文や参考書に視線を落とし、ため息をつく。その全てが気休めで、衝動的でしかなく、今にも道端のゴミ籠にぶち込んでやろうか、と訳の分からない思想にまで行き着く。そう、ゴミ籠に前進した所で、《休みにおいで》という落ち着いた声が鼓膜を擽った。



