桐子は画家だ。

 どこにも属さない、フリーランスの画家。大学院で電子工学を専攻する俺の三つ年上で恐らく25か6になる。鯖を読んでいなければ。7か8かもしれない。いざここで実は30でしたと言われても今更もう驚かない。事実彼女にはそれ以前に年齢に着目させない魅力があったし、他者に【変人】の太鼓判を押させることに長けているのは今に始まったことではなかったからだ。
















「…魅力は言い過ぎた」

 異質な形の無空間。そこに絵の具がびっしりと飛び散って本来白であるはずのシャツを多彩に染め上げた桐子がしんでいた。否、落ちていた。…気絶が正しい。
 善意で立ち寄ったコンビニのレジ袋を引っ提げたままその様を見下ろす。それから容赦なくこめかみをがす、と蹴った。

「起きろ」
「み…ず」

 レジ袋に手を突っ込み、500㎖のミネラルウォーターを取り出す。キャップを取って差し出した所で伸びて来た手にふんだくられ、人の形をした何かがペットボトルをべこべこ変形させながら一気にそれを飲み干した。


「っあ——————甦った…前代未聞の飢餓だった」

「飢渇だろ」
「青磁! プリンはなめらかじゃなくてプッチンするやつがいいって何度言ったらわかるんだわからない男だなあ!!」
「最寄りのコンビニそれしかないんだよ文句言うなら食うな、あとこの部屋なんか臭うけどお前いつから風呂入ってない」
「失礼な、入ったよ。五日前に」
「今すぐに風呂に行け」
「余力がないんだ…介助を頼む」

「お前は俺を使用人か何かと勘違いしてないか」


 部屋片すから行ってこい、念のため風呂の鍵は開けておけと念を押せば「覗くなよ」と呑気な声が返ってきた。





 桐子のアトリエは、アートそのものだ。

 知り合いの建築士に譲り受けたと言う建造物は閑静な住宅地の坂の上に位置し、無駄に立派な作りが近隣住民の一種の目印にもなっている。全面白で統一された外観、一度足を踏み入れれば天井が一部傾斜し、目の錯覚を引き起こさせる独特な間取りは慣れない間、来客の三半規管にもれなく支障を(きた)す。平衡感覚がこれほどまでにヒトに絶大な効果を(もたら)すとは思っても見なかった。

 白一色の無空間をいつかに桐子はキャンバスと言った。

 前述した通り、ここに生息する桐子は自分諸共芸術の一部と化したい。だからいつも全身で描き殴った芸術で自分を染め、力尽きた暁には白い床に自身の長い髪を撒き散らかして炭や川に擬態する。五日風呂に入らない天の川は勘弁だな、と散らばった絵の具のチューブを拾い上げていると、キィ、と扉の開く音がした。