「…熱烈な死の妨害を受けたよ」
アトリエは桐子が荒らした名残がまだ、残っている。
俺が必死こいて隠滅した爪の絵の具が気に食わないのか、桐子は指先を眺めていた。あえて視野見するだけで顔は上げず、トークの文章を作成する。
「往来を歩く全部がぶら下げている。遅いか早いか、ただそれだけの話だ。何を今更怖気ることがあるのか」
「桐子」
「何かな」
「本当にそう思ってるのか」
「本当にそれだけしか感じてないか?」
瞳孔が揺らいだ。みしり、と音がした。
痣に、音が発生するなんて、聞いたことがない。古い廃屋の床を鳴らしたような、気温や湿度の変化により伸縮した木材の膨張が齎す、木造建築に見られる特有の家鳴り。それとも似た音が、恐らく新しい痣の侵食の音だと何故だかすぐにわかった。
「…あまり敏いと嫌われるよ、青磁。男は疎いくらいがいいんだ。そして女が転がす、男もそれが好きだ。平和に生きる術」
「桐子」
「だからお前はモテない」
もう寝る、と踵を返した桐子がその日、俺の帰宅を待つためにこの時間まで起きていたこと。それに気がついたのは、桐子の家を出た後だった。
それから桐子に棲み着いた花餌は 着々と彼女の血を養分にして育った
「全身に皮下出血が広がりやがて衰弱死するなんて、まるでバナナのシュガーポットみたいだね。その理屈で言うと死ぬ間際私の身体は完熟だ」
桐子の痣を見てから既に記録は三週間目に突入していた。初めこそそんなブラックジョークを余裕綽々と宣っていた桐子の痣の転移ペースが早くなり、一日顔を合わせないだけで新たな部位の確認が取れると、嫌がる桐子を捕らえて他症状がないか問診する必要があった。
同時に、記録をする上で見えてきたことがある。
花餌の痣は通常の打ち身と違い患部を押しても痛みを伴わないこと。そして桐子に限っては著しい〝飢渇〟、摂取する飲料は決まって無味無臭の〝水〟を好んでいること。特記事項として(※これは個体差がある可能性を考慮し特記とする)気温変動に敏感なこと、シャワー浴を主としその水温を20℃以下に設定する必要がある、ということだ。
あの日以来、桐子の気が触れるような飢渇にもんどり打つ姿は見ていない。
桐子はダルメシアンの様な斑点が全身に繁殖しても芸術に没頭出来るのは俺が自分を見ているからだと言った。自分の病気なのに我関せずで自己心酔出来る姿勢だけは呆れを通り越して脱帽する。
ただ最近瞑想なのか。キャンバスを前に呆然としていることが増えた。
そして桐子が花餌を発症して推定二ヶ月が過ぎた頃。
けたたましくアトリエのインターホンが鳴り響いた。



