マリファナの樹

 

 四肢の自由がままならない。

 ぷつぷつ、と耳元で何かが弾けている音がする。それは脳髄から反響していて、閉ざした視界の黒に、色水の様な赤い粘液が溶け合って波紋を広げ、意識が急激に吸い込まれていく。

 体が、鉛のように重い。
 

「きーりこちゃん」


 開けた視界は白だった。真っ白な天井は、汚れ、埃一つない。かつて意図的に絵筆で絵の具を飛ばした悪戯すら、青磁が脚立を使って清掃し、死守している無垢だ。


「…剣…ちゃん、くん」

「結局〝くん〟つけんのかーい。おはよ」
「…青磁は」
「おっ。やっぱ目覚め(おめざ)一発目は最愛の男かぁ〜? ヒューヒュー。残念ながらここにはいねーよん。研究の続きがあるってんで一旦大学戻った。オレがテンパって鬼電(オニコ)しちゃってたからさ」


 帰りにぷっちん(・・・・)催促しな、とベッドの脇で椅子に腰掛ける茶髪で眼鏡の男は笑みを浮かべているものの、その目尻は赤かった。顔に出やすいらしい。突っ伏して寝ていたか。或いは泣いたな、と心中で心得て、首に触れる。かぶれたような皮膚の表面は軽く触れただけで、猛烈な痛覚を呼び覚ました。


「……妙な夢を見たよ。真っ暗な空間に赤い粘液が溶ける。色水の波紋、まるで生命の神秘のような…ぷつぷつと何かが生まれ潰れる音。細胞分裂、あれは光合成した植物の気分かな。起きがけに気付いた」
「…」

「これは私を蝕む病魔(はなえ)の音だ」


 首をもたげる。深く息を吐いて反らせた背中に新しい痣があるのが、見ずともわかった。爪の端々(はしばし)には自分が暴れた痕なのか色とりどりの絵の具が入り込んでいた。必死で落としたのか、指の腹は赤く僅かに悴んでいる。自分でも風呂に入ってここまで綺麗に落とさない。〝証拠隠滅〟に徹した青磁の仕業だとすぐに察しがついて、自分を傷つけないようにしている柄にもない姿が浮かんで笑えた。


「…桐子ちゃん、さ」
「ん」
「怖く、ないの」
「何が」

「何がって…花餌だよ。だってこの病気に罹ったら全員死」


 口を噤んだ。言葉にせずに飲み込んで、喉の奥で(つっか)えたことで目の前の恋人の友人は、呼吸に苦しみ喘ぐよっぽど花餌罹患者のように見える。


「別に。ああ罹ったんだなくらいにしか。死ぬ前に世界一周旅行に出たくなかったといえば嘘になるけど、インスピレーションが湧くからそこは大目に見てやるかな。…ただ、絵筆を持つ手が最近震える。利き手の薬指だ。病魔とて私の美学の邪魔をするのは許せない。憤慨して目覚めたら、このベッドの上だった」
「…青磁といい、桐子ちゃんといい、お前らちょっと頭の螺子(ネジ)外れすぎ」
「失礼な奴だな。死に損ないの恋人を友人に託して研究に戻る冷徹漢より私のがよっぽど真っ当だ」
「昔はあんなんじゃなかったよ」
「…」

「元々、気さくな奴だった。確かにスカしてたけど、緊張のあまりアホみてーな自己紹介したオレがウザ絡みしても、心根のどっかはやさしーの。敏感じゃん思春期て、他人が自分をどう思ってるかとか。あいつねーわ、って心隠して笑うクラスメイトん中で、青磁だけは裏も表もなかったの」