桐子に目立った症状の進行がないまま、剣菱が出入りの許可を得て二週間が経った頃。
その日研究で遅くまで大学に残っていた俺のスマホがけたたましく鳴り響いた。
普段はマナーモードにしている。今日もそれは変わらない。ただ、万が一に備えて気付けるように最大に設定していたバイブレーションは机上で得体の知れない生物の様に悲鳴を上げ、一瞬周囲の目を引いた。
相手は剣菱からだ。今日、俺の代わりに一足先にアトリエに行った友人が、今頃桐子のダシにされている。
「はい花江」
《一回で出ろよ!! 何回呼び出したと思ってんだ!!》
「研究してたんだ。どうした」
《やばいんだよ、桐子ちゃんがなんか変で》
「そうか。あいつが変なのは正常だから問題ないな」
《そうじゃなくて!!》
すごい剣幕だ。データ集計を取りながらその時どうせ大した用ではないと正直気もそぞろだった。違和感を覚え、肩で押さえていたスマホを手に取って耳に当て直す。よく耳を澄ませると奥の方で何かの甲高い声と暴れている様な音がして、その悲鳴の根源は間違いなく桐子のものだった。
二週間何もなかった。慢心した。
だから完全に油断した。
「青磁!」
「桐子は」
「部屋ん中、出てろって言うから外にいたら突然中から悲鳴がして」
「鍵」
「かかってて入れない」
「どけ」
マスターキーを使って駆け付けたアトリエの中に踏み込むと巨大なキャンバスを爪で引き裂いたのか、白い空間に絵の具が飛び散り多彩な画布が散らばっていた。
何か。空間の真ん中にもんどり打って髪を振り乱した〝人間〟が、背中を反りながら頻りに首を掻き毟っている。
「ああああああっ、あああ、ああああああああ、あ」
「桐子」
「あああ、あ、っ、、みずっ、」
「ずっと水欲しがってて」
足早にキッチンへと向かい、2ℓのミネラルウォーターのペットボトル二本を持ってそのまま桐子に投げ渡す。案の定ふんだくられる形で飛びついてきたせいで手の甲に爪が引っかかって切れた。
水を飲むためにぐびぐびと上下する喉は掻き毟ったことでもう真っ赤に腫れていて、べこべこと音を立ててへしゃげたペットボトルはすぐさま底をつき、次は二本目を堪能する余裕を残して、それでも血走った目で自分自身を満たしていく。
「…花餌の症状なんかな。学術誌に飢渇に苦しむなんて記載なかった」
「俺が知る限りでは初めからあった。ただ桐子の場合日頃が不摂生だ。単純に没頭の裏返しから来てるのか、どっちかだ」
ミネラルウォーター2ℓ二本を一気にたいらげて気絶した桐子の周りには、彼女によって引き裂かれた画布が散らばっている。これは桐子の魂だ。存在意義と言ってもいい。恐らく次回作になる予定だったF20号程の画角の断片を、桐子が意図して壊したようには到底思えなかった。
「…桐子、ベッドに運んでくれ。ここはこいつが起きる前に俺が片付ける」



